― 寒椿 ―
KAN TSUBAKI
【初稿】
カツンと靴音が響き―――新宿支部、事務局の扉の前にひとりの男が立った。 カメラが人影の顔を認識して、重々しいスチールの扉が開く。 「宮本さん!お疲れ様っす。今日はどうしなさったんで?」 「いや、構わねえでいい。久しぶりに歌舞伎町の方に顔を出したんで、ついでにこっちにも様子見で寄っただけだ」 歌舞伎町にある小さな事務所は、宮本が新宿支部の事務局長を任されるようになる前にいた場所だ。 「宮本さん、供のモンは?」 「俺ひとりだ。気楽なもんさ」 宮本は自嘲のように、ふっと笑って、車のキーとコートを机の上に投げ出した。 「そんな……。事務局長ともあろう人が」 「今は近松の家で住み込みの舎弟だ。しがない立場さ」 苦笑しながら宮本が胸元から煙草を取り出して口にくわえる。 迎え出た男がライターの火を差し出して火をつける。宮本が手近な机のひとつに腰かけた。 「こっちの様子に変わりはないか?」 「へい。特に目立つような動きはありませんね」 訊かれた男が頷いた。 「それならいい」 宮本は吸い込んだ煙草を旨そうに吐きだした。周囲にゆるりと紫煙がただよう。 「これからどちらに?」 「家に着替えを取りに帰ったんだが、忘れもんをした。いっぺん戻らねえと」 面倒くせえなと、宮本がものうげな仕草で首筋の後ろを掻いた。 「それなら、俺が運転していきますよ」 宮本がこの事務局の局長だった時にそれなり重用されており、専属の運転手代わりをも務めていた川添という男が一歩進んで申し出た。 ついでのように、文句はないだろうなという顔つきで周囲を見回す。あがる声はひとつも無かった。 得意げな様子の川添は、鼻先で軽く笑うと、こっそりと横目で宮本の様子を伺う。 特に文句は言われなさそうだと知って心の中で小躍りすると、放り出されていた車のキーをつかみあげ、立ち上がってきびすを返した宮本の後に続いて扉の方へと歩き出した。 通りすがりに瀬尾とすれ違う。 相手にだけに聞こえるように、ふん、と小さくせせら笑った。 小心者の腰抜けのくせに、ちょっとばかり知恵が回って小手先が器用だからと、宮本が何くれと面倒を見てやっており、何につけ気にくわない奴だった。おまけに宮本が抜けた穴――事務局長代行の後任を瀬尾に任せていった事が、更に川添の気持ちを逆撫でしていた。だが、これでこいつも決して、自分がナンバーツーな訳ではないのだと思い知るだろう。だが。 「川添」 瀬尾がなにげなく男の背に呼びかけた。 「あん?」 呼ばれた男が面倒くさげに振り返る。 「宮本さんのメルセ、左ハンのE550だけど大丈夫か」 「へ?」 何のことだか分からずに川添が眼を白黒させる。 「コンプレッサだからパワーもハンパねえ。いいのか?」 「…………何とかなるだろ」 ワンテンポ遅れて答えつつも、川添の声には動揺がのぞいている。言われている意味すらも充分に理解していないのか、心なしかその眼が泳いでいるような。 「宮本さんの車だぞ。組のじゃねえ。いいんだな?」 万が一の事を起こさない自信はあるんだろうなと暗のうちに告げていた。静かな声だったが川添にとっては恫喝されているようなものだ。 「言っとくが値段、コレだぞ」 瀬尾が人さし指を1本、立ててみせる。 「……う」 冷静な言葉にグサグサと痛いところを突かれて、川添が言葉に詰まった。思わず一歩を後ずさりそうになる。 宮本はその遣り取りを聞き流しながら、どうでもよさそうな顔を見せて無言のままだ。 瀬尾が口を開いた。 「それなら俺が行くよ」 「……お前が?」 「ああ、ランク下だがメルセの左ハンドルに乗ってた事がある」 「…………」 「じゃあそういうことで」 むすりとした川添の無言をあきらめと受け取って、その手の中から車のキーをすくいあげる。 「チ…ッ」 格下と見下していた相手に、見事一枚上手を取られた怒りにまかせて川添えが鋭く舌打ちをする。 「じゃあ、出かけてくるので少しの間よろしく」 ニッと笑った瀬尾は、宮本に続いてドアをくぐり、肩越しに振り返って片目をつぶってみせた。 「川添。俺たちが出たら扉のロックを忘れるなよ」 背を向けたままそう言って、瀬尾は宮本と二人して事務局を後にした。 「さすがEクラスの550。AMGじゃねえのに―――そうか、コンプレッサが効いてるのか。スーパーチャージャーはパワーが違いますね。俺が乗ってた中古のCクラス350とは訳が違う。いいエンジンだ。エンジンサウンドもうまく調整されていますし。これは……聴く者の耳を意識していますね。サウンディングチームが相当こだわっているな」 ひとりごとを呟くような瀬尾の声は楽しげだ。アクセルペダルをぐんっと踏んだ。 ヴォン――ッと低い唸り声をあげて車体が一気にスピードを増して行く。ドンッというような衝撃はない。あくまでも滑るような、なめらかさのある加速力だ。 「ふぅん、どこから踏んでも出ていくな。サスペンションも安定していますね。ロールがほとんどない。国産じゃ……スポーツカーはともかく乗用車じゃこうはいかない」 言を続ける瀬尾の目が明らかに輝きを増している。 「……お前、ほんとにこういうの好きだな」 「はは。メカオタクって言われそうですね。役に立つような知識じゃないッすけどね、つい」 苦笑気味の宮本に、瀬尾が思わず首をすくめて小さく舌を出す。 「役に立つのもたくさんあるだろ。こないだも、お前がいてくれたお陰で助かった」 近松のPCを利用して金を横流ししているルートを洗った時の事だ。 「あれもまあ……趣味が高じて、ってヤツでして」 今度は瀬尾が苦笑する番だった。 「今どきはこんなヤクザがいてもいいのかなと思うんスよね。俺は見てくれがこんなんですし、むしろ一般人に溶け込んで経済ヤクザとしてシノギをあげた方が、はるかに効率がいい」 確かに瀬尾の外見に「彼ら」が身にまとっている、あの、あからさまに威嚇するような雰囲気はない。それをメリットとするかデメリットとするかは、受け取り方次第である。宮本も普段は、その筋の者だとは一見しただけでは分からないよう気を配っているが、瀬尾は元々の外見がすでに「らしくない」のである。強面とはとうてい言いがたく、組の構成員の中ではどちらかといえば小柄で、坊主頭に眼鏡といった、どこか愛嬌のある顔立ちをしている。 「宮本さん」 車外を流れていく景色をあてどもなく眺めていた宮元だったが、名を呼ばれてちらりと視線を流した。 「そのうち温泉旅行にでも行きませんか」 正面を向いてハンドルを握ったまま唐突に瀬尾が言った。 「……お前とか?」 「違いますよ」 いぶかしげな声に瀬尾が笑いをこらえながらやんわりと言う。 「ウチの連中みんなでって事ッす」 ウチの―――とは新宿支部事務局の構成員らだ。 「温泉……、か……?」 宮本が考えるような眼をしつつも眉根を寄せる。 「スミの事ですか?それでもOKの宿にいくつかアテがあります。蛇の道は蛇ってヤツですね」 楽しそうに笑いつつ瀬尾が先回りして言う。 組員のたいていは、体のどこかしらに彫り物がある。公衆浴場ではふつう入場禁止である。 「そうか」 言い当てられて苦笑しつつ、だが宮本の物憂げな様子はそれだけの理由ではなさそうだ。 「今の俺は事務局を預かっている身分じゃねえしな。出してもらえるかどうか……」 近松の家を――引いては近松の手を離れる事が許されるのか、という意味だ。 「たとえ宮本さんが近松さんの舎弟扱いとなっている今でも、俺たちのアタマは宮本さんッすよ。それは何があっても変わりません」 瀬尾が静かに、だがきっぱりと言った。 「ふ。―――ありがてえ話だな」 「言っときますが、本気ですから。ウチの他の連中も同じですよ。今の宮本さんの処遇には不満を持っています。お戻りになるまで、事務所は自分が預かっておきますから――」 だから必ず戻って来て下さい、とまでは口にしなかったがその思いは充分に伝わったらしい。 「自分としては―――近松さんは、宮本さんが家を空けるのを止めるよりも、別の事を思いそうで―――ちょっと嫌ですね」 そうなったら何か手を打たないと。瀬尾が呟きながら気遣わしげな色を浮かべる。 「あ、ひとりごとです」 「ふん。やくざが温泉旅行か。あまりに健全すぎて笑っちまうな」 そう言った宮本の口元には、だが、かすかな笑みが刻まれていた。 「うちの事務局のアタマは宮本さんですから。名前をお借りするだけで構わないスから、責任者って事でいいッすか」 「ああ、いいぜ」 「手配自体は俺に任せてもらってOKです。日程はそちらの都合でいいですから、そのうち頃合いを教えて下さい」 待ってます。にこりと笑って瀬尾がそう言った。 「と、宮本さんのマンション、こっちだったですよね」 「ああ」 宮本の指示通りにステアリングを切る。 「忘れ物があるって言ってましたね。お戻りになるまで自分は車ん中で待ってますから。ごゆっくりどうぞ」 そう言った瀬尾に、宮本が思案げな色を浮かべた。 「―――いや。良ければあがっていかないか?軽くメシでも食おう」 「いやそれは……申し訳ないんで。でも宮本さんが食うんなら、どこか寄って買っていきますか?」 「軽くでいいなら、うちにあるモンで作れるな」 「作る……って宮本さんがですか?」 やや驚いたような風情の瀬尾である。 「ああ。田代組時代は、けっこう作ってみんなに食わせていたぞ」 「……?普通そういうのは下のモンの役目じゃないですか?舎弟と一緒だったんでしょう?」 「あいつらメシ作るの下手でなあ。結局は何度俺が作るハメになった事か……」 嘆息しながらそう言う宮本の顔は懐かしそうな色を浮かべている。 「羨ましいですね。俺も―――できればその頃から宮本さんと一緒にいたかった……」 瀬尾はもともと新陽会の人間だ。田代組時代の宮本を知らないことを残念に思った。 やがて宮本の住まいであるマンションに到着し、駐車場内にメルセデスを滑り込ませる。 「今ドアを開けますから」 手早くシートベルトを外しながら瀬尾が言った。 「構わねえでいい」 苦笑した宮本に、瀬尾は笑いを含んだ眼で押さえてかぶりを振ってみせた。 「いいじゃないスか。自分の好きにさせて下さい」 素早く車外へ降り立つとメルセデスの前から回り込み、宮本の為にドアを開けてやる。悠然と降り立った男が、ふ、と息だけで微笑した。 「お前も酔狂な奴だな」 「好きでやってるんです。どうとでも言って下さい」 楽しそうな顔で瀬尾がニッと笑う。 ついで後部座席のドアを開けて身を差し入れると、放り出されていたコートを取り出した。柔らかくなめらかなカシミアの風合いが手に心地よい。 「宮本さん」 丁寧な手つきでそれを広げた瀬尾が呼びかけて背後に立つ。 「ああ、すまんな」 コートを着せかけてもらった宮本が腕を通した。穏やかな眼を見せつつも、その口元には苦笑にも似たものが刻まれている。 「何度も言うようだが、今の俺はこんな事をしてもらう身分じゃねえんだがな」 「自分も何度も言うようですが、だから好きでやってるんですって。気にしないでください」 肩をすくめた瀬尾に、宮本は全く別の事を訊いた。 「瀬尾。もうだいぶいい時間だ。腹ぁ減ってるだろ」 「え、と。確かに小腹は減っていますが。自分は事務所に戻ってから―――」 「それなら一緒に来い」 途中で遮った宮本が、マンションに向かってクイと顎を振った。 先程の誘いはてっきり社交辞令だと思っていた瀬尾は眼をしばたたかせたが、宮本はもうすでに歩き出している。後を付いてくるものと思って疑ってもいないようだ。 ひとつ大きく息を吐き出すと、瀬尾も遅れて歩き出した。 駐車場を出てマンション前まで歩いて言く途中、玄関ホール前の植え込みに紅い寒椿が咲いていた。山茶花に似ているが、咲き終わった花がいくつか花ごとポトンと落ちていたので椿と知れた。真冬の寒い時期でもたくましく、とても綺麗に咲いていて、通りがかる人の眼を楽しませている。 「きれいなもんですね」 「ああ」 宮本と瀬尾が、その美しさにチラリと眼をやりながらエレベーターホールへと向かった。 「そら。こんなモンですまねえな」 瀬尾の前にドンっと置かれたのは炒飯だった。味覚に訴えるあたたかな匂いを漂よわせている。 「うっわ、黄金色のチャーハンですか」 瀬尾が眼をみはった。卵が使われているのは分かるのだが―――普通の炒飯は炒り卵が入っているのが一目で知れるが、これは卵らしき塊がほとんど見当たらず、代わりに飯自体がきれいな黄金色をしているのだ。 部屋へ来る前、マンション脇のコンビニで、ちょっと待ってろ、と言った宮本はすぐに小さなビニール袋を手にして戻ってきた。あれはきっと卵だったのだろう。 「……うまそうだ。いただきます」 両手を合わせて頭を下げた瀬尾は、添えられたスプーンを手に取ってさっそく食べ始めた。 「―――旨い。メシはパラっとしてるのにふわふわだ」 「世辞はいい。あり合わせだ。大したもんじゃねえ」 「ええ。卵以外の食材はぜんぶ冷凍ものですね」 瀬尾が頷いた。 「確かにそうだが。何で分かる」 「近松さんの家にいる宮本さんがゆうべここで飯を炊いている訳がない。おそらく冷凍でしょう。他の具材もだ。―――それでも、すげえ旨いッすよ」 瀬尾は味わうようにゆっくりと炒飯を口に運んでいる。自然、顔がほころんだ。 軽い気持ちで運転手を買って出たのだが、まさかこんな役得つきだとは思っていなかった。とんだ儲けものである。嬉しい気持ちにも嘘はない。 「ご馳走さまです」 宮本よりも一足先に、きれいに飯を平らげた瀬尾がスプーンを置き、再び両手を合わせて頭を下げた。どうやらそれは彼の習いぐせのようだった。 「口に合ったんなら良かったぜ」 食べ終わった宮本が身軽く立ち上がる。瀬尾が慌てて立ち上がり、自分が片付けようとするのを手で制して、汚れ物をキッチンに下げていった。 洗い物が終わって戻ってくると、宮本は足を投げ出して煙草に手をやる。すっと伸ばされた瀬尾の手から火をもらい、一口を大きく吸い込み、うまそうに眼を眇めた。 瀬尾は部屋の中を改めて見回した。 男の一人住まいとは思えないほど、きちんと整頓されている。宮本の性格だろうか。 「じろじろ見るなよ」 紫煙をくゆらせつつ、宮本が苦笑した。 「いや、いきなり来たってのに、きれいに片付いていて……正直おどろきました」 「性分かな。それともやっぱり田代組時代のせいか」 あの頃は本当に、家事が下手くそな奴ばっかりでな―――。 そう言う宮本の顔が一瞬ほころんだような気がした。昔を懐かしんでいるのだろうか。組員が互いに、いい関係を持ちつつ暮らしていた事が伺い知れた。その中には近松も入っているのだ。今現在、宮本への度重なる酷な仕打ちからすると考えられないことである。 「近松さんは……何を考えているんでしょうね」 瀬尾が唐突にぽつりと言った。 「あいつが何を考えているのか、か。―――思い当たる節が無いわけじゃねえ。あいつの事は俺が見張る。その為に、あいつんちに入ったようなもんんだ」 「そう、ですか」 「ああ。それは俺の領分だ。お前が気にする事じゃねえ」 「……分かりました。ただ……手が要る時は言って下さい。命令するだけでいい。理由は問いません」 瀬尾の表情は真摯なものだった。 「―――分かった。そうする」 そんな瀬尾に向ける宮本の顔は穏やかさを浮かべていた。 田代組が潰れた後、新陽会の傘下に入ってからは誰とも杯を交わしておらず、兄弟を作っていない。それはもうすでに宮本の根幹を成すものだった。今後もそれを変える気はない。それでもこうして慕ってくれる者がいるというのは、そう悪い気はしないものだ。 瀬尾は使える男だ。どうせなら出世させてやりたいもんだと、宮本は心の裡でそう思った。 ― 了 ― |
瀬尾宮。ほのぼのプラトニック系?
コミックスにしか存在しない男、瀬尾ちん。
宮本さん命!!な感じと小悪魔的な愛嬌が好き。