― 罪人 ―
TUMI BITO
【初稿】





 室内には未だ荒い息遣いと熱気、雄の匂いとが籠もっていた。
 汗でぬめる躰から近松が手を離した。自分自身も全身が汗で濡れている。
「これでもうあんたは俺のもんだ」
 低い声には、どこか満足気な響きが隠し切れずに滲んでいる。
 だがしかし近松は、今ひとつ釈然としない物をも感じていた。
「そうか」
 浅い息をつきながら、どうでもよさそうな宮本の口調がやけに勘にさわる。
「気が済んだか?」
「ちッ」
 宮本からは見えない角度で近松の顔が忌々しげに歪んだ。
「ならもういいだろ。抜け」
「…」
 無言のまま男が身を起こす。
「…俺はこのケジメ、どう付けたらいいんですか」
 宮本の上からどく事はせず、両膝を突いたまま声を発した。
「何の事だ」
「とぼけんのはナシにしましょうや、宮本さん。俺はあんたを手籠めにした。それも無理矢理にです」
「そうだな」
 宮本が枕元の煙草の箱へと腕を伸ばした。
「許されることじゃねえ。エンコぐらいじゃ足りねえでしょう」
 腹を括って見据えた近松に、だが掛かる声はない。
「宮本さんッ!」
 何か言ってくれと、答えを欲して近松が声を荒げる。
「俺にどうしろってんだ。お前の指なんかいらねえ。仕置きをつけろっても…それ程の事じゃねえだろ」
「何…ですか、それ」
 宮本が望むならどんな落とし前でも呑むつもりだった。その覚悟が行き場を無くして荒れ狂う。
 皺だらけになっているシーツをぐしゃりと鷲掴みにした。
「俺に、何もさせてくれねえ気ですか…」
 絞りだすような声はかすれていた。己を嗤うような歪んだ表情。
 それを横目にしつつ、宮本は煙草をくわえた。
 唇を引き結んだままの近松が、拾い上げたライターを両手の中に囲いこみ、無言のままに火を差し出す。
――カチッ。
 深く吸い込んで片目を眇めた宮本が、ふぅ――と旨そうに紫煙を吐き出す。
「で、これからどうするんだ」
「どうするかって?」
 その問いに、それまで迷路の中を彷徨っていた近松の中で何かが弾けた。頭の芯に閃光が走り、白くかすむ。
――ここまでしても伝わらないのなら。
「こうしてやるよ!」
 叫んだ時には宮本に飛びかかっていた。その手が、がっしりとした首に巻き付く。
 切れ上がっている近松の眼が更に吊り上がっていた。
 だが宮本は両の眼で見上げるだけだった。
「好きにしろ。お前の方が立場は上だ。俺が不始末をしでかしたと言えばスジは通る」
 気管を圧迫されて苦しい息の下、そう言った。
 ここで息の根を止められても構わないのだと、近松にはそう聞こえた。
「…あんたは全然分かってねぇ。何で俺がこんな事をしでかしたのか!」
 近松が怒声をあげる。だがそれは悲鳴のような声でもあった。
「近松…すまねぇが話が見えねぇ。お前、俺に何を言わせてぇんだ?」
「宮本さん、あんたがそんなんだから俺は…!」
 日頃の冷徹な仮面をかなぐり捨てた近松は、殆ど支離滅裂だった。逞しい体躯から激情が迸る。両手に込めている力がぐっと増した。
「ぐ…げほ、…ッ」
 抵抗を見せない相手に、近松の怒りが頂点を迎える。次第に宮本の顔色が朱に染まっていった。
「ぐぅ…ッ」
 低い呻きを耳にして、ハッとしたように近松の手が緩んだ。宮本の上に馬乗りになったまま、躰の両脇にだらんと腕を垂らす。
「こんな事をしても…」
 声は途中で掻き消えた。
 だが意を決したように再び口を開く。
「こんな事をしても…あんたを抱いても、あんたは俺のものにはならない。今の話じゃねえ、この先も…」
 決してだ。
 あんたは俺のものにはならない。
「そうでしょう、宮本さん…ッ!」
 絞りだすような声だった。
「上役のお前なら、俺を自由にする事ぐらい簡単にできるだろうが」
 見上げる眼に訝しげな色が浮かぶ。
 言葉の裏を返せば、この先も近松が望めば宮本の躰を好きにできるという事だった。しかし。
「…そういう意味じゃないんですよ。だからあんたは分かってないってんだ」
 どうあっても理解されない近松の胸の内に、憎しみにも似た感情が膨れあがっていく。
 ゆっくりと身を倒した近松が宮本に覆いかぶさり、乱れた胸元を掴み上げた。その唇に口付ける。
 宮本は眼を開けたまま近松の接吻を受け取け止めた。
「ッ…ふ」
 深く唇を重ねたのち、ようやく顔が離れた。
 互いの唇が唾液で濡れている。
 近松は宮本の顔をじっと見つめた。観察者の冷酷なまでの瞳。
 だが宮本は見返すだけだ。
 その顔の上に何らかの色を探して近松が凝視する。その視線を宮本は平然と跳ね返した。
「もう…抵抗しないんですか」
 嘲るような声が言う。
「したらやめるのか」
「…あんたの全てを奪い尽くしてやりたい」
「俺にはこの身ひとつきりだ。他には何もねぇ。好きにしろ」
「…抱き殺されても文句、言わんで下さいよ」
 宮本の全てが欲しい。――全てが。
 だが自宅に身柄を囲いこみ、この手でその身を自由にできたところで――近松にとってそれは全てという意味にはならないのだ。
 だが宮本にはそれが分かっていない。
「俺達の稼業じゃ、どんな死に方した所で文句は言えねぇ。てめぇでてめぇの死に方選べる程まっとうな生き方もしちゃいねぇ。ドジ踏んでタマぁ獲られようが、ムショん中で野垂れ死のうが、お前にくびり殺されようが、死ぬ事に変わりはねぇ。早いか遅いか、それだけの違いだ」
 もっとも腹上死じゃあ、あんまりサマにならねぇがな。
 ふ、とかすかに笑うような気配が洩れ落ちた。
 宙に浮かぶ視線が、その独白のような呟きが、今の近松には無性に腹立たしい。
 俺を見ろ!と言ってやりたい、叫びたい。
 あんたの目の前にいるこの俺を、その目で見ろと。見てくれと。
 だがどうあっても無駄なのだ。
 どう足掻いたところで宮本に近松の心の内は伝わらない。
 こんなにも近くにいながら、彼らの間には深くて暗い溝が口を開けていた。その彼我の距離の遠さに歯噛みしたくなるのを押し殺そうとして近松の頬が痙攣する。
 だが抑えようするほどに狂おしい想いが湧きあがってくる。
 ままならぬ己の昂ぶりに、薄闇の中でギリッと歯が鳴った。
 切れ者と名高い自分の、この無様さはどうだ。金で頬を張る事もモノで懐柔する事もできはしない。この男には通用しない。例えその躰だけ手にしたところで、その心の所在は此処には無いのだ。

 誰の手にも侵されず、深い海を悠然と泳ぎ回る大きな魚――。

 決して見下されている訳ではない。
 その証拠に兄貴分として宮本を慕う近松の思慕には応えてくれている。だがその心の底までは見えていないのだ、見る気もないのだと、嫌でも思い知らされるしかなかった。
 何もできず手をこまねいているしかない己の身が不甲斐なくもやるせない。
 打つ手さえ見つからず、ただひたすら悶え苦しむしか道は無いのか。
 宮本は情には厚い男だ。懐が深くもある。だから世渡り上手な自分とは違い、今のような立場にも甘んじている。
 自分は本来ならば御輿として担ぐべき男を、劣情のままに力づくで犯した。
 だが宮本は近松を切り捨てない。切り捨てられないのだ。
 一度懐に入れた者を決して裏切らない。例え自分が裏切られても。それが宮本という男だった。
 それを逆手に取ったつもりはない。さすがに愛想を尽かされるだろうと思っていたのだが、完全に当てが外れた。
 挙げ句このザマだ。
 ぐっと固く唇を引き結ぶ。

「――この部屋は…どうですか」
近松にとっては重すぎる沈黙を破り、ややあって口を開いた。話題を変えて頭を冷やそうという算段もあった。
「そうだな…。お前にケツ割られた事をのぞけば――居心地はそう悪くねぇ」
 宮本の浮かべた表情を眼にした近松は、思わず両のまなこを見開いていた。
 その言葉に嘘偽りはないのだろう。宮本の顔はどこか安らいだような色を漂わせていた。
 それを眼にした近松が、とむねを突かれる。鋭い痛みがキリリと走った。
 極細の鋭利な刃物で刺されたような鋭い痛み。
 あからさまに話題を変えた近松に、宮本は周囲を見回しながらこだわりなく声を返した。
 今夜の事は、宮本にとってはそうやって流してしまえる、それだけ些細な事だったということだろう。
 力づくで犯されても、男だから減るものではなし、と冗談めかすこともなく――いや、そういった発想すらないのだろう。
 腹立たしくはあるものの所詮は些末な災難、ぐらいにしか思っていないに違いない。だから居心地は悪くないと、そんな事を平然と言ってのけられるのだ。
 近松は歯痒い思いに苛まされつつ、今夜確かに手に入れた筈の男をただ見つめるしかできなかった。絶望がその身をじわじわと蝕んでいく。
 組のためならばともかくも、此処では――今この場所では互いに互いを分かり合えない。分かち合えない。
 それが今晩、近松の知ることのできた唯一の事実だった。

 近松の眼が宮本の肌を辿る。
 鍛え上げた体躯のそこかしこに浅く深く、朱色の所有印が浮き出していた。明日には、近松がその首につけた両手の条痕もきっと。
 知らぬ間に指が伸びていた。肌の上に滑らせる。まだ薄く汗ばんでいる宮本の肌はなめし革のように滑らかな手触りだった。
 隙間なく掌をひたりと張り付かせる。そのままゆっくりと撫でおろした。途中、広げた掌の親指が宮本の乳首を嬲った。だがその躰はぴくりともしない。
 繰り返し行きつ戻りつする指に、宮本が口を開いた。
「そんな事はしねぇでいい」
 愛撫の手が無言のまま止まる。
「バシタ扱いか?それとも何か、てめぇの色子になれってんなら、俺ももうこの歳だ、勘弁してくれ」
「違う!そんなつもりはねえッ!!」
 一瞬、近松の顔に憤怒の形相が浮かんで消えた。
 女なんぞと比べる気は毛頭ない。比べられよう筈もない。
 どんなに言葉を尽くしても宮本には伝わらない。――ただ、それだけだ。
 顔をそむけ、押し殺した息を吐き出した近松の眼が、部屋の一画でふと留まる。
 無言のままに立ち上がり、隅に置かれていた盥へと歩み寄り、張られた水の中に手拭いを沈めた。絞り上げたそれを手にして、近松が踵を返した。宮本の傍らに膝を付く。
「躰、拭かせてもらいます」
 引き締まった躰の上を、丁寧に拭い清めていく。
「すまねぇな」
「いえ」
 近松は短く答えた。
 しばらく無言のまま間が空いた。

「何か寝酒でも持ってきましょうか?」
 新たな煙草をくわえた男に火を差出しながら、近松が伺いを立てた。
「そうだな。貰うか」
 乱れた夜着の合わせを適当に整えながら宮本が頷く。
「じゃあ…」
 立ち上がった近松の顔に、いつもの覇気が戻ってきた事に何を思ったのか、宮本が声で制した。
「おい。お前と酌み交わす気はねぇぞ。後はもう――てめえの場所へ帰れ」
 緩みかけていた近松の顔が一気に強ばる。突き放されたような衝撃があった。
「――帰れ」
 身を起こして片膝を立てた宮本が、眇めるような眼で近松を見上げていた。頑なな訳ではなく嫌悪を浮かべるでもなく、だが否やを言わせぬ眼の色だった。
「まだ仕事してたんだろ」
 近松はシャツとスラックス姿だった。
「俺はイモ引いて不甲斐なく燻ってるだけの中堅どころだが、お前は代紋しょえる立場にいる男だ。俺なんざに構ってたら、ヘタ打ちゃお前に余計な疵がつく」
「……分かりました」
 真一文字に唇を引き結んだ近松がやがて一礼し、踵を返して背を向けた。
 扉を開けて敷居をくぐり、音のしないよう静かに後ろ手で戸を閉める。
 歩みだそうとした足がその場で止まった。凝然と立ち尽くす。
 俯いた近松の表情は伺えない。だが両脇に垂らした腕の先で、ぐっと固く拳が握り込まれた。
「…ッ!」
 腱が白く浮き上がり、腕の筋肉が細かく痙攣する。

 抗う躰を組み敷き押し拓いた。
 苦鳴の呻き、初めて聞く艶。
 胸を突き刺す鋭い痛み。
 不可思議にして穏やかな表情。

 そこに在るのは見えない境界線。
 組の事を除いては――受け入れるだけ受け入れて、近松には何も望まない。

――…宮本さん。

 片手を上げて顔を掴み、目蓋を深く覆い隠した。
 苦悶の色を滲ませた表情がいびつに歪む。

「…ひどい人だ」

 彼らの間に横たわる深くて暗い溝。それは。
 宮本にとってはいざ知らず、だが少なくとも近松にとってそれは――温度差という名の、罪だった。




                                               ― 了 ―




携帯で1万字まで打ったところで、これ以上はダメだよーんとメール画面に怒らりました(泣)
文字制限が低すぎです。せめて2万字ぐらいにして下さい>Doco●oさん


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