部屋の中に美しい旋律が流れていた。 「―――――」 ベッドの上から手を伸ばしたアルベルトが、サイドテーブルに置かれた銀盆からソーサーを取りあげる。 手入れのよく行き届いた指先で白磁のカップを持ち上げると、典雅な仕草で口をつけた。 青繻子に金糸の縫い取りが施されている円筒形のクッションに躰を沈みこませると、房飾りのタッセルがかすかに揺れる。 馥郁たる紅茶の香りと味とを楽しみながら、瞼を閉じて美しい曲の調べに耳を傾けた。 ショパン・スケルツォ第四番 ホ長調 作品番号五十四 知的で、優雅で、透明で、洗練されている。 不思議な美しさに支配された旋律は、そのすべての技巧が純粋に音楽の表現のためだけに存在していた。 澄んだ音色の中間部はきわめて軽快に奏でられ、心地よく耳を流れていく音楽は人の手によって作られたのではなく、初めからその音自体が自然の中に存在しているような、そんな錯覚さえ覚えるものだった。 そして、聴く者を陶酔させたまま華麗にその音を消していく終局を楽しみにしていたアルベルトの耳に。 「んごぉおおおおおおお」 突如として割れ鐘のような不協和音が鳴り響いたのだった。 「……ッ」 楽曲を楽しむ就寝前のひと時を邪魔されて、アルベルトのこめかみにヒクリと青筋が浮かび上がる。 ゆっくり頭を巡らせると、神聖なる音楽への冒涜者に対して、視線だけで人を射殺せそうな眼を向けた。 紅い双眸が爛と光る。 「―――いかん」 激昂しかけた己を戒め、息を吐いて気を静めると、サイドテーブルのコンソールパネルに指を走らせた。 ややあって、聴く者に不快を感じさせない滑らかさでもってレコードの音量が大きくなっていく。 「せっかくの音楽をぶち壊しおって」 傍らを見おろしながら忌々しそうに呟くアルベルトの視線のその先では、一人の男が大の字になって広い寝台の半分以上を占領していた。 鼾をかきながら太平楽な寝顔を見せているのは、名前のみしか知らぬ男である。それどころか今晩、それも数刻前に出会ったばかりの相手であった。 こんな無礼者、それこそ衝撃波の一つや二つ喰らわせて叩き起こし、屋敷から放り出してやりたいのは山々だったが、しかしこのような次第となった元々の原因は己の側にあり―――となればこちらに非がある以上、そう強引な手段に訴えることもできないのが業腹だった。 今晩、暴風雨と言っても差し支えない悪天候の中を外出していたアルベルトだったが、帰路の途中で道に飛び出してきた子供を前にして、乗っていた車が急ブレーキをかけ――たまたまその脇を歩いていた男に向かって、ものの見事に頭から泥しぶきを浴びせてしまったのだ。 近くの酒亭から出てきたらしきその男は、全身を泥だらけにされても怒る様子を見せず、瓢箪の酒瓶を下げた肩をすくめて少しだけ驚いたように笑ってみせて。 むっつりしつつも車を降りたアルベルトが非礼を詫びてからよく見ると、男はどうやら千鳥足だった。 謝罪の必要性はあったろうかと顔をしかめながらも、金を渡してその場を収めようと思った矢先―――こちらに向かって崩れ落ちてきた男を思わず受けとめてしまったのがまずかった、と今になってアルベルトは思う。 泥酔状態にあるらしき男を渋々ながら自宅まで送り届けようにも、タイソウ、という名前しか聞き出すことができぬうち、男はアルベルトにすがりついたままぐぅぐぅと寝息を立て始めてしまい、あとはもう揺すっても耳元で叫んでも頬を張っても目覚めない。 仕方なくそのまま屋敷に連れ帰ったものの、どんな馬鹿力なのだか、いっこうに離れてくれる気配がなく。 帰宅を知って迎え出たイワンがそれを見たとたん金切り声でうろたえ騒ぐのに氷のような一瞥をくれて黙らせると、首に男をぶらさげたまま、仏頂面で寝室までずるずると引きずって来たアルベルトであった。 それがどんなに意に染まぬことであろうとも、この屋敷の主人は非常に礼節を重んじる人物だったのである。 「―――今夜はもうこのまま寝るしかないのだろうな」 夜着に着替えることもできずにワイシャツとスラックスを身につけたままのアルベルトが、忌々しそうに言いながら息を吐く。 やや手間取りながらも苛立たしげな手つきで胸元のボタンをいくつか外すと、今は腰の辺りに回されている男の腕を邪険に押しやり自分の寝場所を確保した。 しかし灯りを消してベッドに身を横たえた途端、押しのけた筈の腕が隣からもそもそと伸びてきて。 「――――――」 アルベルトの動きが止まる。 恐らく傍らに人肌の温かさを感じての事であろうが。 「何を考えている?」 怒りを覚える前に唖然として男の顔を見た。 しかしどこをどう見ても何も考えていない顔である。 むふんと満足そうな寝息をもらしながら、男は変わらずアルベルトの躰をまさぐっている。 と。シャツの中に潜りこみ、胸の上を這ったその手がぴたりと止まった。ついで何かを探すような仕草でもって何度も行きつ戻りつし始める。 やがて深い眠りの中にある男の眉間にしわが寄った。 どうやら、あるべき場所に胸のふくらみが無いことを訝しんでいる様子である。 「フン、どこの端女と間違えているのだか」 嘲るような表情を浮かべたアルベルトだったが、泥酔してはいても不思議と下卑たものを感じさせなかった男のその手が、常に畏怖の眼差しを向けられている自分にためらいなく触れてくるのが――そういった人間はごく限られているため――実は少しばかり物珍しくて。 大きな動物、そう、たとえば熊か何かにでも懐かれているのだと思えばいいのだ。とそう判じた途端、遠慮のない力でぐいと引き寄せられた。 「―――アル……」 「む」 耳にしたアルベルトがまたかと柳眉を逆立てる。 相手に謝罪する際、名を名乗った自分に対して、事もあろうかこの酔漢は、勝手に省略してそう呼んだのだ。しかしそのような馴れ馴れしい呼び方を許した覚えもなければ今後予定もないアルベルトである。 最初に呼ばれた時、あまりの気色悪さに、思わず振り返りざまの一撃で相手の顔を殴りつけてしまったのだが、酔いのせいで痛みを感じなかったのか、男は一向に意に介す様子がなく―――それ以降も時折おぼろげに意識を取り戻すたび、呂律の回らぬ声でそう呼んでいた。 「……なぁ……よぉ、アル……」 むにゃむにゃと呟く男の腕にしっかと抱きかかえられたアルベルトは、自分が女でないことは分かったろうに、どころか名を呼んでいるということは、個体認識はなされている筈なのにこれは一体いかなる事かと、そう考えているうちに男の寝息が頬にかかり顔をしかめる。 ―――酒臭い。 「貴様。私の我慢にも限度があるぞ」 男の腕にぎゅうぎゅうと抱きすくめられて顔をそらせつつも、アルベルトが冷静さを保った声で吐き捨てる。 しかしその肌触りが気に入ったのか、更に手を伸ばして触れてこようとする相手の躰が密着し、太腿に何か硬いものが押し当てられるに至っては―――そこはそれさすがに同じ男同士、それが何であるかに思い当たり、ぎょっとしたような表情を顔に浮かべた。 「朝勃ちするにはまだ早すぎる時分だろうがッ!!」 今までの余裕もどこへやらそう叫んでしまってから。 ゴホリ。 耳にした声で我に返り、自分が口にした台詞の品性の如何を問うて気まずげな咳払いをする。 全ての元凶たる男に向かって忌々しげな一瞥をくれると―――性懲りもなく回されてくる腕はもう仕方ないとしても、相手の躰と密着したくなくて、なるべく男から遠く離れた場所に身を横たえた。 結婚して子まで成した身であろうとも、節度あるそれしか知らぬアルベルトにとって、眠ったまま隣の人間に、それも性別や人格の好悪に関わりなく欲情するような節操のない男の生理には縁がなく、よって隣の男のそれは理解できぬ野蛮な代物であり。 計らずしも今晩迎え入れてしまった、招かれざる客についての一切をそれ以上気にせぬ事を心に決めると。 「……一匹……二匹……」 アルベルトは固く目をつぶり、羊の数を数え始めた。 |
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