Freude,Schöner Götterfunken,Tochter aus Eleysium, その場を席巻するかのごとく、バリトンソロが響き渡る。 Wir betreten feuertrunken,Himmlisch,dein Heiligtum! そして応じるかのように始まった合唱パートのフーガが高まっていき、やがて最高潮へと向かい始めた。 ベートベン最後の交響曲 第九番ニ短調 作品番号百二十五 第四楽章「An die Freude」―――歓びの歌。 静と動、緩やかな流れ、激しく心揺さぶるスピード感。 楽聖の織りなした旋律がいま空高らかに鳴り響く。 激しい戦闘で損傷を受けたのか、いつしかプレイヤーのアンプ出力がフルボリュームにまで高まっていた。 呼応するかのように、アルベルトの衝撃波がそのパルスを変えていく。 澄みわたる風のごとき波動から、鮮やかな真紅に輝く竜巻へと。 「―――いくぞ戴宗ッ」 「いやさ衝撃の!」 応じた戴宗が、丹田に集め寄せた気を拳に押し上げ、ドゥンッと新たな噴射気流を巻き起こす。 青空に閃光が走り、連続して爆発音が鳴り響いた。 拳も砕けよとばかりに力を放ち、己の裡に込みあげる欲望のままに相手の喉笛へと喰らいつき牙を埋める。 その解放の悦びにアルベルトの躰がぞくりと震えた。 エウレカ ――――見つけた―――― 己の死力を尽くして闘う相手。その価値を有する男。 礼を以てして貴様を屠り、その屍を美しい朱に染め上げてやろう。 貴様こそは我が全霊を賭けるに相応しき者。 我が渾身の一撃を浴びて今ここで死ね―――――。 大粒のルビーよりもなお紅く輝くアルベルトの双眸が光を増し、肺腑の奥から息を吐き出した戴宗の掌が、稲妻を放ちながら巨大な気流を噴き上げ育てる。 互いに間合いを計りつつ、一撃必殺の瞬間を狙う。 「喰らえ―――――ッ!!」 腕から拳から掌から、あらん限りの力を放出した。 ドォオオオオオオオオオオオンン――――――!! 遙か上方で聞こえた雷のごとき爆発音を耳にして、屋敷の門前に立った男が青空をふり仰ぐ。 「おや、アルは朝っぱらから元気だねえ」 爆風のあおりを受けて真っ白なクフィーヤがふわりと空へ舞い上がり、長いカフタンの裾がバタバタとはためくに任せながら、朗らかな顔で男が笑った。 「―――これはセルバンテス様」 ワゴンを押しながら廊下を歩いていたイワンは、見知った男の姿を中庭に見つけて慌てたような声をかける。 「あれは誰だい?見ない顔だ」 セルバンテスが上空に向かって親指を投げた。 「それが……昨夜アルベルト様が外出した折に連れて戻られた方なのですが。私もよくは存じませんで」 「ふうん。アルがずいぶんと楽しそうだ。面白くないね」 まるで天気がいいねとでも言うような口調のセルバンテスが、制空権争いの場となっている上空を見上げる。 つられて顔をあげたイワンの眼に映るのは、めったに見ぬほど猛々しい表情に彩られたアルベルトの顔であり。 一体どこをどう見たらと首を傾げたところに。 「それ、アルの朝食かい?」 上空のバトルフィールドから視線を移し、イワンの押していたワゴンの上を見たセルバンテスがそう尋ねた。 「さようでございます」 銀盆の上にセットされた瀟洒な食器とティーセットを目にしたセルバンテスの眼がすぅと細まる。 「なぜ二人分あるのかな?」 にっこり。 イワンの耳にその擬音まではっきりと聞こえそうなほどの、婉然たる男の笑みだった。 「いえ、これは―――」 浅い色のグラス越しに見える双眸はごく穏やかな光を湛えているというのに、男のその眼に何故かどうしてもあの客人の分ですとは口にできず、イワンが声を裏返らせながらセルバンテスの顔を見つめる。と。 ピシ、ピシリ―――。 「……うぐっ」 躰が石化し、ひび割れていくような激痛に襲われたイワンが悶え苦しみながら呻いたが、ふと気づけば痛みは消え失せており、荒い息を吐きつつも安堵するに至った。 「―――ああ、これは修理が大変だね」 その声にノロリとした視線を向けてみれば、眼前の男は大穴の開いた屋根をのんびりと眺めながら、辺り一帯に響き渡る音楽に耳を澄ませているだけで。 ―――眩惑のセルバンテス―――――。 イワンは額に浮かぶ脂汗を指でそっと拭いつつ。 昨晩アルベルトとあの男がどうやら寝台を同じくしていたらしい事は決して口にすまいと心に誓っていた。 「レコードの音が割れかけている。あんなに埃をかぶってしまってはもう駄目だな。新しいのを探してやらないと。……ふぅ、カラヤンが振った時の盤はもうほとんど残っていないというのに。―――困ったものだね」 そう言いながらも手に入れる絶対の自信があるのか、余裕に満ちたセルバンテスの口調であった。 「アルが気に入っていたあの蓄音機も、もうオシャカだな。代わりに象嵌造りの一式でも拵えて贈るとしよう」 きっと喜ぶであろう相手の、その時の表情を思い浮かべているセルバンテスの顔はいたって楽しげだ。 その視線がワゴンの上にふと戻された。 「今朝はオムレツか。イワン、あの客人の分はいらないよ。もうすぐお帰りになるだろうからね」 ―――物言わぬ屍になってな。 「余らせるのももったいないから、代わりに私がアルと一緒に食べることにしよう」 そういいながら銀盆の上を眺めていたセルバンテスが何かを思いついたような表情を浮かべる。 「イワン、ケチャップはあるかい」 「は?……はい、いや、ここに」 「もっと欲しいんだがね」 オムレツに添えられている銀の小皿を指差したB級エージェントの耳に独り言のような声が聞こえた。 「は。ただ今!」 イワンがワゴンの中から素早く所望の品を取り出す。 丁重に手渡されたそれを受け取ったセルバンテスが容器の蓋を指先で弾き飛ばした。 「彩り美しい方が食欲をそそるものだからね」 機嫌良く言いながら、ふんわりと柔らかそうな黄色のオムレツの上で手を動かし、やがてイワンの眼に映ったのは、オムレツを華麗に彩る―――ハートマークだった。 続いて男は右から左へと向かって手を動かして、イワンには解読不能な書体の文字を綴っていく。 「アル、そんなもの早く終わらせてここにおいで」 自らその口元に運んでやるつもりらしいセルバンテスが嬉しげにオムレツを眺めた。 どうやら満足のいく仕上りとなったらしい。 「セルバンテス様―――」 背後にぽいと投げ捨てられた赤い容器を、空中ではっしと受け止めたイワンが何とも言えぬ顔をする。 「なんだい」 待ち切れぬ様子で早くも銀のスプーンを手にした男が、オムレツの乗る皿の縁に軽く当て、チンと高く澄んだ音を鳴らす。その音色すらも嬉しげだ。 「…………いいえ。何でもございません」 イワンが平伏せんばかりに低く頭を下げる。 ハートマークの下に添えられたアラビア文字が、アイラブユーでないことを心の底から祈るばかりだ。 ドゴォオンッ、ドンガラガッシャ―――ンンン。 「戴宗、貴様!ちょこまかと逃げ回るなッ!」 「へ!逃げてねえだろッ、人聞きの悪りぃ!」 上空では相変わらず賑やかな音が鳴り響いている。 真っ青な青空の下、舞いあがる粉塵が眩しい陽光を受けて光の粉となり、大気を美しく輝き煌めかせている。 大空までもが歓喜の歌を謳っているかのようだった。 ささやかに楽しみ空騒ぐ彼らの、これが始まりの日。 ― 了 ― |
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