ガコン―――。


 自販機の前に屈みこんだ延彦が取り出し口に手を伸ばす。
 蓋を持ち上げて缶コーヒーを取り出すと、じわりと手のひらに熱が伝わった。
 プルトップを引き上げて一口ずつを飲み込んでいくと、少しずつ温かさが躰の中へ広がっていく。
 喉を潤しながらチラリと横へ視線を走らせた。
 自販機の脇では、長い脚を折り曲げて敷石に腰を降ろした男が一人、のんびりと煙草を吸っている。
 やや甘く見えるマスクを持ち、肩までの長さがある髪を波打たせているその男は、ジーンズに薄いシャツ一枚という軽装だった。
 延彦の視線にも平然としたまま、男の横顔は旨そうに煙を吐いている。
 ここらでは見かけない顔だった。年の頃は自分よりも少し上ぐらいだろうか。
「さっきからここにいるな」
 何気なく声をかけた。
 夜中にこんな場所を一人で歩いている酔狂な人間がいるとも思えなかったが、峠の上下を走りながら男の前を数回ほど通過したとき周囲をそれとなく確認しても、それらしき車の影は見当たらなかった。
「んー?」
 声をかけられて初めて気づいたように、男が延彦を振り向いた。
「ああ……」
 唇をへの字に曲げて困ったような顔をした男が、ぽり、とこめかみを掻く。
「女と一緒に夜のドライブとシャレこんだのはいいんだけどよ、途中でケンカして放り出されちまった」
 言いながらひょいと肩をすくめた。
「凶暴でよー。ステア奪ってくんだぜ。ひでえだろ?」
 同意を求めるような口調でそう言った男は、あっけらかんとした笑顔を延彦に向ける。
「それはまた―――すごい女だな」
 人なつこい笑顔につられて、延彦が苦笑した。
「あんたこの辺の人だろ。走り屋さん?」
 道脇に停めてあるアルテッツァに目をやった男が、人好きのする笑顔を浮かべながら気さくに話しかけてくる。
「ああ……まあな」
「へえ。オレ、栃木に住んでるんだけどよ。こっちにもいるぜ、チーム組んでるデカいのだと……エンペラーってヤツとか」
 知ってる?
 男は尋ねるような視線を投げて寄越した。
「ああ、あの脳味噌の中にまで筋肉が詰まっていそうな連中か」
 延彦は、関わり合いになりたくないといった表情を見せて眉をひそめる。
「……すんげえ表現だな」
 その言葉に目を丸くした速見が――それはエンペラーのサードたる速見だった――次いで弾けたように笑い出す。
「おっ……面白すぎ……っ」
 ぎゃははははーーッ!!と声をあげて笑う男の爆笑が夜のしじまを突いて響き渡った。
「そんなに笑うことないだろう?」
 自分のことまでを笑われたような錯覚に陥って、延彦が憮然とする。
「……あんた……イイな……」
 気分を害したらしき相手の声音に、悪いと手をあげた男は目尻に浮かんでいた涙を拳で拭う。
「―――で。嫌いなのはクルマか人間か?」
 笑いの残る声でそう尋ねた。
「どっちもだよ」
「でもあそこ、バカッぱやの連中が揃ってるって聞いたぜ?」
 いかにも人伝えで耳にしたと言わんばかりの顔つきをして速見が言う。
「速いって言っても……クルマがランエボじゃあな」
 その言葉に延彦が苦笑した。
「あれだけ馬力とトルクがあれば誰が乗っても速いだろ。つまらないことこの上ないね」
「へーえ」
 きっぱりと言い切った延彦に、速見がヒュウと口笛を吹く。
―――ま、誰が乗っても取りあえずのとこまで速いわな。シリーズ前期型のオレのエボ3ですらノーマルで馬力二百七十、トルク三十一・五キロのハイパワーだからねえ。そりゃー気持ちよくかっ飛ぶさ。
「けどよ、四駆だしバランスよくて乗りやすいのは確かだろ?」
 延彦へ新たにそう誘い水を向けながら、速見は新しい煙草に火を付けてこの先続くのであろう相手の教授に耳を貸す姿勢を取る。
「ああ、FRとは段違いに挙動も安定しているからな。ついでに言うならランエボにはトーとヨーのコントロールがついていてコンピュータが自動制御してくれるから挙動は更に崩れにくいだろう。たとえドライバーが多少ラフなアクセルワークをしたとしても、クルマの方で持ちこたえてしまう。だけどその分、トーが納まるまではアシがフラつくデメリットもある。AYCも不要だとまでは言わないけれど、それだって善し悪しさ。少なくともスキルアップの妨げにはなるだろうな。ああいうクルマに乗っていて腕が上がるとは到底思えないね」
 一息に言い切った延彦は顔に手をやり、眼鏡のメタルフレームをぐいと押し上げた。
「そんなもんかねえ」
―――言ってくれるじゃねえの。
 胸中でにやりと笑った速見だったが、表向きは感じ入ったような表情を浮かべながらふんふんと頷いて見せる。
 神妙な顔をしながら真面目に聞いている男を目にした延彦は、勢いを得たように再び口を開いた。
「エンペラーのリーダーは合理的と評価されているようだけれど、あんな車でワンメイクスのチームを作っているようじゃ―――どうだろうな。僕に言わせればパワーだけ追及しているようにしか見えないね。絶大なる力を、さ。馬力だけ追及したところで真の速さもコントローラブルなスキルも身につかないのにな。でも聞いた話によると……エンペラーっていうのは時々暴力沙汰も起こしているというからね。やっぱり、力にものを言わせるのが得意な連中は力を―――パワーを売り物にした車に乗りたがるってことなんじゃないかな」
 言いたいことを言い終わったらしい延彦が、手にしていた缶コーヒーの残りを喉の奥へと流し込む。
「あのさ。……オレ、ランエボ乗ってるんだよなあ」
 敷石に腰掛けたままの速見は、そんな延彦を見上げながら申し訳なさそうに口を開いた。
「……げほッ!」
 飲み下そうとしていた茶色の液体にむせて、延彦が咳き込む。
「おい、大丈夫か?妙なタイミングで声かけちまってすまん」
 申し訳なさそうな顔をつくろって速見が謝った。
「……だいじょ……ぶ」
 げほげほと咳き込みながらも、気遣うようなその声音に延彦の罪悪感は嫌が応でも増していく。
「その……ごめん。オーナーの前で」
 身の置き所がないとでもいうように地面へ視線を泳がせた。
 車の持ち主というものは自分のそれに愛着を持っているもである。たとえどんな欠点を抱えていたとしても。
「まあ、ホントのことだしな」
 しょうがねえよと肩をすくめながら笑った男に、延彦のいたたまれなさは最高潮へと達していく。気まずそうな表情を浮かべながらも思い切って正面から相手を見つめ、ひとつ咳払いをすると。
「悪かった」
 真摯な声で詫びを口にした。
「いいって。気にすんなよ」
 親しみをこめた口調で言いながら速見が延彦の背をばん、とたたく。
―――そんなことぐれえで罪悪感おぼえてくれちゃって、まあ。ウブだねえ。
「けどよ、パワーってのはそれなりあった方がいいもんだぜ?」
 その生真面目さに新鮮なものすら感じながら、楽しそうな口調で速見が言う。
「もちろん不要だと言った訳じゃない。オレは力だけ―――パワーだけあっても何の役にも立たないということを言いたかったんだ。暴力だけじゃ何も解決できないのと同じさ。何も生み出さないってね。暴力沙汰を起こしている連中なんて走り屋の面汚しだよ」
 軽そうな見かけだがどうやら人はよさそうだと男を判断し、気を許し始めていた延彦もリラックスした表情を浮かべながら言う。
 反論されることなど思いも寄らぬ顔だった。
「まあ、なあ……」
 どことなく歯切れ悪く言った速見が、手にしていた煙草を口元へと運びながら困ったように笑う。
 その目元に優しい色が浮かびかけたが―――。
「暴力に頼ろうとするのは人間のクズだけだ」
 相手の様子には気づかぬまま延彦が強く言いきるのを耳にしてすぅと消えた。
「同じ走り屋として許せない。最低だよ」
 青年の口調には、頭で考えて紳士的に解決しようとせず力に訴えようとする人種への嫌悪感があからさまに滲んでいた。
「……言うねえ、ボーヤ」
 暗がりの中で、速見の唇にあまりたちのよくない笑みが浮かぶ。くわえている煙草の先が、夜闇にぼぅと赤くまたたいた。
「だってそうだろ?」
「―――御説ごもっともなんだけどよ」
 そう言いながら立ち上がった男は尻についていた砂をぱんぱんと手で払うと、短く吸いきった煙草を地面に落として靴先でゆっくりと踏みにじる。
「……どうかしたのか?」
 相手の口調が微妙に変化したことにようやく気づいた延彦が、とまどったような声をあげながら男の顔を見た。
「暴力が何も生み出さねえってのにはオレも異論はねえさ。そんなもんに頼るのが人間のクズだけだってのにもな……けどよ」
 細かな茶葉の散る地面を見つめながら唇にゆるやかな笑みを浮かべた男が、延彦へと一歩を踏み出す。
「それがどんなもんなのかは知りません、てなお綺麗そうなツラで言われると、さ。―――反吐が出そうになるんだよなあ」
 顔をあげた速見が延彦に視線を据えた。
「…………そんなの……知らなくっても分かるさ」
 相手の突然な変化を訝しみながらも、延彦は周囲に広がる闇を唐突に意識していた。
 こんな時間では当然ながら周りに自分達以外の人気はなく、見渡す限りの暗闇だけが広がっている。唯一の明かりといえば自販機から洩れるわずかな乏しい白い光だけであり、それはより一層、周囲の暗さを浮き上がらせているかのようだった。
「へえ。ならいっぺん自分の躰で味わってみるか?―――暴力ってヤツをよ」
 ん?
「お前さんの嫌ってる……力を持ってるヤツが強いこともある、ってさ」
 男を見つめたまま動けずに硬直している延彦に視線を固定した速見は、微笑とも呼べるような笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づいていく。
「なん、だって……?」
 訳もなく不気味なものを感じて後ずさりしようとした延彦は、自分の足が動かないことに気づいて愕然とした。
―――オレの足…………?
 男の視線に射すくめられたかのようにぴくりとも動かない。
―――なん……でだ。この男はさっきまでと同じように笑っているだけなのに。
 キケン。キケン。キケン。
 頭の中で狂ったように鳴っている警鐘は。
 なぜ身がすくむ。肌が粟立つ。
―――全身の毛穴が開いていくような……この感覚、は。
 感じる寒気が次第に強くなっていくことに動揺しながらも、延彦にできたのはそこまでだった。
 生存本能を鈍らせている町の動物には、野生の獣が発する気配を察することはできても、それが自分の命を脅かすものだと認識する能力もなければ、即座に逃げ出すべきだと判断するだけの能力の持ち合わせもない。
「無駄だと言ったろ、そんなの何の役にも立たないよ」
 目の前の男に恐怖を感じたからという、ただそれだけのことで理由も無く背を見せることは延彦のプライドが許さなかった。
 躰のそこかしこが発している警告を押し殺しながら、その場へ踏みとどまろうとする。
「じゃ―――こんなことされちまったらどうする?」
 音も立てずに移動した速見は滑るような身のこなしで延彦の背後に回り込み、強靱な二本の腕であっさりと羽交い絞めにした。
「いきなり何を……ッ!!失礼だろうッ!?」
 延彦がカン高く裏返った声が叫びを発する。
「失礼だぁ?……何を言うかと思えば」
 くくく、と背後で含み笑う気配がした。
「生憎だったな。オレは育ちが悪いもんで……そういうもんとは縁がねえんだ」
 延彦の顎をつかんで上向かせ、頬へ触れるほどに唇を寄せた速見がひときわゆっくりと耳元へ囁いた。
「う、あ」
 首の後ろがぞくりと粟立つ。
―――この男……は…………。
 男の放っている空気に紛れも無い暴力の匂いをかぎ取った延彦の目が、大きく見開かれる。
 周囲でざわめいた夜風が、生あたたかくブワリとその頬へ吹きつけた。むせかえるほどに鼻をつく匂いが延彦の周りへと立ちこめる。

 ねっとりとした濃密な気配。
 まるで……血臭のような。

―――まさか……っ。

 ぞくりと躰の芯を震わせながら延彦が心の中で激しく否定する。
 そんなはずはなかった。しかし―――。
 湿った土から立ちのぼる腐臭やむぅっとするような草いきれ。密集する木々が放つオゾン臭、さらには排水溝を流れる汚水までも。
 今の今まで意識もしなかった匂いが、生臭ささえ伴って延彦へと襲いかかっていた。
「―――離せッ!やめろォオオッ!」
 静まり返った夜の中に絶叫が響き渡る。
 躰を押し包むおぞけに耐えかねて、延彦は声の限りに叫んでいた。
「さっきまでの勢いはどうした?」
 腕の中に獲物を捕らえた男がにぃッと笑い、延彦の胸ぐらをつかみあげた。
 残る右手がすぅ―――と上がる。
 握った拳からは二本の指が突き出されていた。
 貫手をゆっくりと延彦の眼球に近づけていく。
「知ってるか?人間の目玉ってのは柔らかくってよ、すぐ飛び出すんだぜ」
 相手からの返答を期待するでもなく、何気ない世間話でもしているかのような男の口調に延彦の息が荒くなる。
 背筋をツゥと冷たい汗が流れ落ちていくのが分かった。
 ふらりと意識が遠くなり常識の世界がガラガラと音をたてて崩れていく。
 頭の芯が呆けたようになって抵抗することも忘れ、目の前にある男の顔を魅入られたように見つめていた。
 延彦を引き寄せた速見が、大きく見開かれているその目に視線を当てる。
 舌を伸ばして、延彦の眼球をぺろりと舐めた。
「な……ッ!?」
「ふーん」
「何を……してる……?」
 濡れた感触がどこをなぞっていったのか信じがたく、信じたくもなくて、延彦が茫然と唇を震わせる。
「うまいぜ?ナマあったかくて……塩気があって」
 唇の割れ目からのぞかせた赤い肉片で味わうように唇を舐めまわした男が、延彦に視線を流しながらニヤリと笑った。
「…………ひ」
 その言葉に考えたくなくても胸へ思い浮かんでしまった疑問を、だが延彦は口にすることができなかった。
 唇が震えて声にならなかったということもあったが、男から返ってくる答えのまさかの可能性が恐ろしくて、問い正すことができなかったのだ。
 膨れあがっていく恐怖感に躰が強ばり、歯の根が合わずにカチカチと鳴る。
「あらら。―――おい、大丈夫かよ?」
 しまった脅かしすぎたと気づいた速見が、いたずらを見つけられて叱られた子供のような顔をしながら青年の顔を覗き込んだ。
「―――ッ!!」
 その顔を間近にして延彦の躰がびくりと跳ねる。
 自分を襲っていた寒気とは裏腹な男の平然とした態度、あまつさえは決まり悪げな笑顔があまりに恐ろしくて。頭の芯が白く痺れ、ぐずぐずと精神の均衡が崩れていく。
「ひっ……あ」
 神経が焼き切れそうになった延彦は、空っぽの頭のまま衝動的に手足を振り回していた。爆発的に生まれた力が男の腕を振り払う。
「う、わ…………ぁっ!!」
 絶叫をあげながら駆け出した。
―――車に乗り込んでしまえば……。
アイツの手から逃げられる!
 その思いだけを胸にして、ともすれば縺れそうになる足を叱咤してひらすら前へと地面を掻く。
「あ、あ」
 追ってはこないかと後ろを振り返った延彦の目には、凄まじいまでの恐怖が浮かんでいた。怯えに塗りつぶされた真っ暗な色が。
 追い詰められた小動物の眼。

「―――――」
 逃げ出した青年の恐怖に満ちた視線を目にした瞬間、速見の顔からは笑みが消えていた。
 残る一切の表情も。
 動いた右手が澄んだ音を鳴らす。


 シュン――――――。


 闇の中を銀光が走った。