ブロォオオオオオオ――――。 関東北部から放たれた赤の斥候が、埼玉北西エリアから立ち去っていく。 エンジンを切った状態で道脇の木陰に停められているアルテッツァの中で、人影が動いた。 息を潜めるようにしながらシートへ身を預け、暗がりに目を凝らしていた延彦がハッとしたように身を起こしていた。 深閑と静まりかえっていた夜の中にエンジン音が響き、それは少しずつ遠去かっていく。 「………………」 延彦が視線を宙に据え、じっと耳を澄ませた。 耳に聞こえる排気音はやや低めではあるものの、走り屋特有である腹の底を揺るがすような轟音を立ててはいない。回転の下で引っ張る走り方でもなくエンジン音もさほど耳に付かない。排気圧がリリースされる時の独特な音も聞こえなかった。 「ほんとに走り屋じゃなかったのか……?」 眉根を寄せながら訝しげに呟く。 「……あ」 自分のその声で我に返った。 身についた習性以外の熱心さを持って男の情報を得ようとしていた自分に気づき、誰も見ていないと知りつつ慌てたように視線を泳がせる。 焦ったように手の甲で頬をこすると、そこは燃えるような熱を放っていた。 「…………何なんだよ」 声に怒りを滲ませながら、汗ばんでいる手の平をシャツの胸にこすりつける。 きれいに拭い終わった手を惑うように宙で揺らした。 握ったり開いたりしながら、どこへ置こうかとさまよわせる。 バケットの縁へと手を下ろした。巻いてあるスポンジをぎゅっと握り締める。 自分の腰に触れぬよう、延彦の手は無意識のうちにもその場所を避けていた。 そんなことをしては―――。 してはいけない事だ。 時たま家の中でこっそりと自分の欲望を吐き出すことにすら罪悪感を覚えている延彦だった。 ―――しちゃいけない。 それもこんな場所で。 戸外で―――車の中で。 独りで。 「くそ……っ」 ―――躰が……熱い。 「はぁ……」 シートに深く沈みこみながら、苦しさをこらえるように息を吐き出した。 躰の中に植え付けられた熱が鎮まらない。 男の腕から解放されて一度は収まったはずのものに、再び火がついていた。 完全に男の気配が消え去った今、ようやく訪れた胸の中の安堵とは裏腹に、それはまるで延彦を嘲笑うかのごとく次第に強くなっていく。 歩き去っていった男の後を付けていくだけの理由も勇気もなかったが、愛車の中でじっと時を過ごしている間にも躰は熱を帯びて小刻みに震え出し、唇は何度舐めてもすぐに渇いていた。 「くそ……っ」 同じ言葉を繰り返しながら、延彦がシートの中で落ち着きなく身動きする。 虚ろな視線でバックミラーをふらりと見上げた。 消えてしまった男の後姿を探すかのように。 シートをつかんでいた手が持ち上がり、ゆっくりと唇へ向かっていく。 『乗せてくれねーなら…………もういっぺんするぜ?』 低く含み笑うような声が耳について離れない。 自分の唇に触れた延彦の指がそっと辿っていく。 男がさんざんに蹂躙し、犯していったその場所を。 「は…ぁ」 かすれた吐息のような声がもれた。 あの男は。 オレが拒めばもう一度―――してくれたのだろうか。 あの……熱い唇、で。 あの冷たい…………で。 「…………ッ!?」 何を―――。 今、俺は。 何を考えた―――? ―――――シャリィィイイイイ…………ンンン。 冷えた音が殷々と木霊のように耳へと返り。 こくん、と延彦の喉が鳴る。 ぴちゃ……。 濡れた音が車内に響いた。 「あ」 動揺しながら慌てて手を下ろす。 唇に触れていた指を、自分はいつの間にか口の中に含んで舐めていたのだ。舌先を動かして物欲しげにチロチロと。 ―――そん……な……ッ。 頭を振って男の面影を消し去ろうとする。 だが突然に動きを止め、見開いた両眼に憤ったような色を浮かべた。 腰の前を硬く昂ぶらせていた自分と相反するように、反応ひとつ見せていなかった男の股間を思い出してその顔が悔しげに歪む。 ―――オレが今こんな思いをしているのは。 全部あの男のせいなのに。 ―――さんざんオレをもてあそんでおきながら。 「あいつは…………」 あの男はのうのうとした涼しい顔をして―――。 オレを捨てて行った。 「……く……しょうッ」 顔を歪ませた延彦の手がゆっくりと股間に導かれていく。 「お前が、オレに…………」 布地を突き上げているものに指が触れ、すくんだように身を縮めた。 「オレが悪いんじゃ……な……お前のせい……だ……」 恨むように言う声に泣きそうな響きが入り交じる。 「……こんな、所で……」 布の上から固まりぎゅっと強く押さえ込む。 「しちゃ……いけ―――」 声が途切れた。 「う、くぅ……っ」 手の中へ感じる昴りに息を詰めた。 その場所から、こらえ切れぬほどの鋭い痺れがじんじんと広がっていく。腰全体が脈打っているようだった。 熱に浮かされたような表情を浮かべる延彦の手が、チ と小さな金属音を立てながらジップを降ろす。 「……ふ、あ」 せわしない手つきで布を掻き分け、べったりと下着を濡らしながら硬くそそり立っているものを握ってつかみ出した。 「…………あ、あっ」 自分で与えるわずかな刺激にも反応して、うわずるような声がもれていた。 「んっ……イ、イっ」 濡れた声をあげながら握りこんだそれを上下にしごく。 罪悪感に満たされながらも強迫観念のようなものに駆り立てられ、せわしなく手を動かした。 先端に透明な露が盛りあがり、すぐにそれは溢れ出していく。 こんなことをしていい場所ではない。 それははっきりと知っているのに―――止まらない。 「はぁ、はぁ……っ」 昂ぶっている躰を持て余し、すぐに延彦の息は荒くなっていった。 この躰を―――。 熱く火照る躰を何とかしたくて気が狂いそうだった。 誰かに、何かを、して欲しい。 誰か……に。 あの男、に―――。 「…ど………にか、しろよ」 泣きそうな表情を浮かべながら、硬く猛っている自分のペニスを手の中に握り締めた。 先端からとめどなく溢れているものがツゥと指を伝い、しとどに濡らしていく。だがすぐに我慢できなくなり、手を動かしてしごき始めた。 「ん、んっ……」 こすれる先端で生まれる痺れに、甘い息がもれた。 だが何かが足らない。 何かが―――。 沿えた片手を動かしながら、残る一方の手をそっと首へと持ち上げる。 その手にぐっと力を入れた。 「…………?」 生あたたかく湿った指の感触に顔をしかめる。 更に力を加えて締め上げた。 「……ぐ……ぅ」 鈍い圧痛。 生ぬるい刺激しか得られない。 欲しいのは。 細くて。 冷たい…………あれ。 「…………ううッ!」 怒りの表情を浮かべた延彦が、発作的に手を伸ばしてイグニッションキーをぐいとひねった。 電力が供給された車体のウィンドゥを引き降ろすと、冷たい外気が流れ込んでくる。やがて車内の温度が夜の冷気と同化する頃。 「……う……ふうっ……」 自分が戸外にいるかのような錯覚を覚えることができた延彦の唇が、満足そうにうっすらと歪んだ。 だが、それでもまだ足りない。 足らないのは…………痛み。 片手でしごきながら残る手で先端の括れをいじっていた指が、惑うように止まった。 「…………」 指先で割れ目をなぞり、躊躇するように行きつ戻りつさせる。 指を折り曲げて、先端の柔らかな皮膚にそっと爪先を当てた。 ガリ……ッと一息に掻きおろす。 「ツッ!」 鋭い痛みが躰の中を貫いた。 「あ……ひっ」 同時に痺れるような快感が腰の前に突き上がる。 強くこすりたてた。 「ア、アア―――ッ!!」 傷ついたペニスに感じるヒリつく痛みと、膨れあがっていく鋭い愉悦と。 「んっ、んっ……あっ……イ、イ……っ」 たまらずに次々と濡れた声を放っていた。 視線を宙に飛ばし、はぁはぁと激しく息をあえがせる。 虚ろな目をしてうっとりとした表情を浮かべていた延彦だったが、瞬間の快感が抜けていくと、やがて。 「…………ツ」 残された痛みに顔をしかめながら涙を浮かべた。 「ちくしょう……っ」 表情を歪めながら男に恨み言を吐いた延彦の顔に、ふと思いついたような色を浮かび、ごくりと唾を飲み込んだ。 両の目に昏い色が浮かび、見る間にそれは満ちていく。 「オレだけがこんな目に合って……たまるもんか」 ―――お前のことも……汚してやる。 同じ所に堕としてやる…………。 「ふ……ふふ」 かつて男が身を沈めていた真紅の淵の深さも知らず、浅瀬で溺れて息をあえがせながら延彦が嬉しげに笑う。深みへとじわじわ沈み込んでいきながら。 「お前が……悪いんだぜ」 うわごとのように呟いた。 |