「ぐ……あっ!!」
 うめきを発した延彦が、首に絡みついた冷たいものを両手につかんだ。
「な…………?」
 細い鎖のようなものが巻きついている。
 苦し紛れに前へのめりながら闇雲に引き剥がそうとする延彦自身のせいで、それは更に首へと食い込む力を増していく。
「げほッ」
 ギリギリと締め上げる銀鎖に喉を詰まらし、力の抜けた手で空を掻いた途端にピンと張っていた鎖の力はたわみ、その反動でよろけた延彦はドゥと地面に尻をついた。
 げほげほと咳き込みながら目を開けると、涙で滲んだ視界に二本の脚が映る。
「―――いい度胸だな」
 降ってきた声に恐る恐る見上げると、そこには彩のない目をした男が立っていた。
「なまけてねぇで―――起きろよ、そら」
「ぐ……ぅッ。や、め……っ」
 短く巻き取られた鎖に吊り上げられて呼吸を切迫された延彦が、うめき声をあげながらよろよろと立ち上がる。
「逃げられると思ったか?」
 優しいとすら言える男の声音に、悪寒が背筋を這いのぼった。
 少しでも呼吸を楽にしようとして鎖と喉との間に手を差し込んだが、巧妙に巻きつけられている細い鎖がほんの指先をしか許してくれない。
―――もう……駄目だ。
 再びの悪夢の中へと突き落とされた延彦の手足から力が抜けていく。
 自分の中で何かが崩壊していくのを感じていた。
 喉に巻きつく銀鎖が自重を受けて更に食い込み、意識が白くかすんでいく。
 意識が途切れる寸前で手を下ろした男は鎖をぐいと引き、後ろでひとまとめにした延彦の手首に巻き付けた。
「はぁっ、はぁ……ッ」
 流れ込んできた新鮮な空気を貪ろうとして伸び上がろうとした途端。
「ぐふっ!!」
 手首との間でピンと張った鎖に喉が締まる。苦鳴をもらしながら延彦は背中をのけぞらし―――そのままの姿勢で動けなくなった。
 自分で呼吸を圧迫しないためには、そうするより他になかったのだ。
「目ぇつぶりな」
 穏やかな日常世界を手放しつつある延彦が、その声にふらりと視線を向ける。
 目の前には悪夢の権化たる男の無表情な顔があった。
 視界の隅にゆっくりと持ち上がる拳が映り、顔の真正面でぴたりと止まる。
「……つぶりな」
 低い声が延彦の耳に聞こえた。
―――今度こそ殴られる!!
 反射的に身を縮め、ぎゅっと固く目を閉じる。
「……それでいい」
 無表情のままに男が拳を後ろへと引く。
 宙を走らせた拳を容赦なく顔面へ叩きつけようとする寸前で―――。
凍りついたようにその動きが停止した。
 鼻先数センチのところで拳が止まる。

「――――――」

 初めて見るような目の色で、男が眼前の光景を見た。
 固く目を閉じ恐怖に身を震わせている青年の躰。
 鼻先に突きつけられた自分の拳―――。
 速見の顔へ、ゆるやかに感情の色が戻っていく。
 その下から現れた表情は、この場に似つかわしくないものを浮かべていた。
 痛みのような、悲しみのような―――あきらめにも似た遠い色。

「…………」
 長い沈黙の後でゆっくりと息を吐いた速見が、拳を引いて脇へと降ろす。
「…………?」
 いつまでたっても飛んでこない拳に訝しんだ延彦が、身を固くしたまま薄く目を開けようとした途端に視界が暗くなった。
 顔の上から眼鏡をすいと抜き取られ、カシャンと鳴る音が下方で聞こえた。
「……ひっ」
 一瞬、新たに危害を加えられるのか思った延彦が恐怖に身をすくませる。
 だが―――。
「ん、むっ!」
 あたたかく湿ったものに唇をふさがれていることに気づいて思わず驚きの声をあげた。一体何がどうなっていのか自分の置かれている状況を把握できず、恐怖も忘れてそっと瞼を持ち上げる。
「…………?」
 距離が近すぎてよく見えないが、目の前に男の顔があるのは間違いない。
 それなら―――このあたたかい感触は。
「キスしてる時には目を閉じるもんだぜ、ボーヤ」
 わずかに笑いを含んだ声で耳元へそう吹き込んだ速見は、舌先で延彦の唇の合わせ目をつつきながらぐっと腰を抱き寄せた。
「な、ん……?」
 延彦の背中がたわみ、首に巻きつけられたままの銀鎖がシャリン、と冷たい音を鳴らす。
「……あ」
 未だに呼吸を阻害している鎖を思い出した延彦が瞳を凍らせ、あえぐような声をもらした。
「目……つぶれって言ったろ?」
 唇を離した男が息だけで囁いて、延彦の腰を抱く腕に力を入れた。
 かすかに開いた唇の合間から男の舌がするりと滑り込む。
「……んっう!」
 反射的に抗おうとした延彦だったが、すぐにあきらめて力を抜いた。
 この状況の何かが間違っているような気はしていた。
 だが。
 自分の生殺与奪権はこの男が握っているのだから――従わねばならないのだ。
 決して自分の意志ではない。
 どこかで生まれた安堵とともに延彦はそう納得して、命じられたままに目を閉じる。
「……ぅ」
 気づくと男の熱い舌がゆっくりと延彦の中をまさぐっていた。
 かつて理路整然と自分を形作っていた常識の世界から遠く離れ、息継ぐ間もなく次々と与えられる衝撃に最早まともな思考力を失っている延彦は、首に鎖を巻き付けられたまま男に唇を犯されているという異様なこの状況すらも受け入れ始めていた。
 躰を傷つけられる痛みへの怖れから逃れられたことだけは悟っていて、それだけで一気に躰の強ばりがほぐれていく。
 全身を支配していた恐怖から解放された延彦にとって、先ほどまでの冷気とは打ってかわったように与えられている男の唇はとてもあたたかで―――熱くて。
 ともすればすくんで固まりそうになる延彦だったが、焦れたように唇を浅く噛まれて大きく唇を開く。
「………ぅ、ふっ……」
 奥へと滑り込んで来た舌に絡み取られ、かすれたような吐息がもれた。
 男の指が尻の下を鷲掴み、ぐ、と持ち上げられた延彦が必死に脚を伸ばしてつま先立つ。
「う……んっ」
 足先だけが地面に触れている不安定さに耐え切れず、目の前にある胸へと身を預けてすがらせた。
 見た目にそう分厚さを感じさせなかった男の胸は意外にも逞しくがっしりとしていて、薄いシャツ越しに伝わってきた熱量に訳もなく恥ずかしさを感じた延彦の頬がかっと燃える。
「んあ、ッふ」
 尻の肉をぎゅっと強く掴まれて唇からあられもない声がもれた。
 男の舌でくすぐるように口蓋を舐められて、腹の底に快感を覚えた延彦の躰がびくりと揺れる。
 伸びてきた長い指が、脚の間を探るようにしながらゆっくりと行き来を始めた。中指が柔らかく押すようにしながら撫でては戻る。
 ひくんと背をのけぞらせた延彦の躰から少しずつ力が抜けていく。
「…………ん」
 唇を許しながらおとなしく男の胸に躰を預けていた延彦だったが、かすかな熱が腰に生まれていることに気づいて驚いたように目を開けた。躰の底に生じた感覚に不安を覚えて身をすくませる。
 腕の中の嫌がるような動きに気づいた速見が自分は静まりかえっている腰の前を押し付けた。更に男の躰と密着することになった延彦が羞恥に耐え切れず抗うように身じろぎする。
 延彦のものは欲望の形をかたどり始めていた。
「…………」
 無言のままに速見が腕へとこめる力を強くする。
「ん、は……ぁ」
 こらえきれぬように、延彦の唇から熱を帯びて渇いた息がもれた。
 男から与えられる口付けは次第に深くなり、息までもを奪うように貪られる。
 口脇から溢れだした蜜をゴクと飲み込んだ延彦の腕が、首に繋がる鎖をギチリと引いた。
「―――ああ、あッ」
 喉へと食い込む冷たい鎖を感じた途端、ぞくりとするような愉悦を覚えて腰が波打つ。せわしなく息をあえがせた。
「はっ……あっ……」
 うわずった声をもらす延彦の目には、熱に浮かされたような色が浮かんでいる
 頭の奥が冷たく痺れ、なのに腰は熱く充血し感じる快感は次第に増していく。
 男に躰を押し付けて、焦れたように腰を揺らした。
「お前、これ……いいのか?」
 唐突に様子を変化させた青年に気づいた速見がそう聞きながら、延彦の腕と首を繋ぐ銀鎖をぐいと引く。
「あ……あ……」
 薄くなる呼気に意識が白み、頭の中ではチラチラと銀色をしたものが舞いはじめ。やがて銀光は破裂するほどに膨れ上がり―――。
「ア、アァ―――ッ!!」
 躰の芯に生まれた爆発的な快感に腰を突き出し、ぐぅっと背をのけぞらせながら鋭い声を放つ。びくびくと躰を痙攣させた延彦の股間は、布越しにもそれと分かるほどに硬く勃ち上がっていた。
「……そうか」
 速見が苦笑する。気道を圧し潰さない程度に鎖を張りながら再び唇を降ろすと、飢えたように舌を伸ばした延彦がゆるんだ表情を見せながらその口吻けを受け取った。
「はっ……ふ」
 大きく唇を開きながら深く男を受け入れる。
 熱を帯びている躰に―――喉を締め上げる冷たい鎖を心地よく感じながら。
 脳裏でまたたく銀光に延彦のペニスはどくどくと脈を打ち、反り返るほどに硬く充血していく。
 浮かせた片足を男に絡ませ、自分の腰を男に押し付けて強くこすった。
「…う……ん……」
 うっとりと目をつぶったまま浅い息を吐く。
 その拍子に外れてしまった男の唇を追って延彦が伸び上がった。求めるように唇を大きく開き、伸ばした赤い舌をひらめかす。
 軽く笑うような気配とともに再び降りてきた熱い湿りに安堵しながら、男へと身をすり寄せた。唇を深く犯されて舌を吸われながら、男に腰を押し付けては鎖をねだり取る。
「ん、ふ……っ」
 喉元に銀鎖が食い込むたび、ひくひくと躰を痙攣させながらこらえ切れぬような声を放つ。
 甘やかな声をもらしながらあえぐ延彦の唇と舌をやがて蹂躙しつくすと、速見は引き剥がすようにして身を離し、銀鎖を抜き取って戒めを解いた。
「ん……っ」
 シャリンと鳴る音にゆっくりと瞼を持ち上げた延彦は、男の胸の中に躰を預けながら熱の残る息を吐いた―――宙で揺れる鎖に目を吸いつかせながら。
「………ふ、あ……」
 吐息をこぼす延彦の呼吸は浅く弾み、躰はガクガクと震えていた。
 その顔はうっすらと上気して、目元は濡れた光を帯びてしっとり潤んでいる。
「そういうカオしてりゃーけっこう可愛いのに」
 元通り手首に銀鎖を巻き付けながらくすりと笑った速見は、腕の中で浅い息を吐いている延彦の頬を指の背でするりと撫であげた。
「続きがしてえんなら他の男に頼みな」
―――オレはごめんなんでね。
 内心でひょいと肩をすくめながらも面白そうな顔をして、速見が布地を突き上げている延彦のものに軽く手を触れる。
「続……き……」
 男の手がもたらす心地よい感覚に気を取られながら、延彦がオウム返す。
「挿れられてえんじゃねえのか」
 ここに、よ。
 延彦の後ろに手を伸ばした速見が、指先で双丘の奥をとん、と叩いた。
「……いれ…る…?」
 女の躰にすらあまり触れる機会のなかった延彦にその手の知識が乏しく、怪訝そうな顔で男に問い返す。
「コレだよ」
「んっ」
 布の上から軽く触れていた男の指先で昴りの先端をこすられて、延彦がちいさくあえいだ。
 男の腕をぎゅっと掴みながら焦れたような表情を浮かべる。布地の上からであることがもどかしいようだった。
 延彦を腕にすがらせたまま、速見の指が円を描きながら双丘の奥を押す。
「……っ」
 当然ながらそんな場所を他人に触られたことはなくて、延彦が反射的に身をすくめる。だがふと、その顔の上で色が動いた。
 浮かび上がってくるのは、自分の中に生まれた感覚をいぶかしむような―――微妙に艶を帯びた表情。
 唇からかすれたような吐息がもれる。
「犯られたことねえんなら、裂けちまわないように気をつけな」
 それを見た速見が意地の悪そうな顔でにやりと笑った。
「……やら……れ……?」
「カマ掘られたことねえんだろ?なら、ちゃんと慣らすんだぜ?」
 それでもまだあやふやな表情を浮かべている延彦に、
「ケツの穴だよ。男には女のようなチツがねえからな。突っ込むならそこ使うしかねえだろ」
 分かったか?
 速見が懇切丁寧に教えてやる。
「―――っ!?」
 男が口にした露骨な言葉でようやく一連の内容を理解して衝撃を受けた延彦がやっとのことで正気を取り戻す。
「……ばッ!……お前……なに考えて……っ!」
 同時に男が今までに自分へと為した数々の行為を思い出し、ぐらつく足を踏みしめながら詰め寄ろうとした時。
 速見の胸元でプルルルと電子音が鳴った。
 取り出した携帯を一瞥した男が、アンテナを伸ばして耳に当てる。
『あたしだけど……』
 戸惑うような女の声が流れ出してきた。
『一時間後に電話しろって、これでいいの?』
「ああ、サンキュ」
 軽い声で女に応じる。
『ハヤミの頼みならこれぐらい何でもないけど……』
「悪かったよ」
『よく分かんないけど……まあいいわ。ね、今度また抱いてくれる?』
 女の声に密やかな吐息が混じる。
「埋め合わせはさせてもらうさ」
 含むように笑いながら速見が返した。
『うふふ……そうこなくっちゃ。じゃ、またね』
「愛してるぜ」
『ウソばっかり』
 あっさりと女が言って、回線は切れた。
「…………何でだよ」
 手の中の携帯を見つめながら口の中で呟いた速見が、そうだと思い出したように延彦を振り返る。
「で、何だっけ」
 今までの全てをきれいさっぱり忘れたような口調で尋ねた男は、今晩初めて出会った時と同じようなのんびりとした笑みを浮かべていた。
「…………もういい」 
 自分ひとりが空回りしているような疲れを覚えた延彦が、低い声で言った。
実際のところ、続く出来事に振り回された躰は悲鳴をあげかけている。
「あ、そ?ところで物は相談なんだけどよ、この先まで乗せて行ってくれねえ?」
 暗闇を振り向いた速見は、道脇に停めてあるアルテッツァを視線で指した。
「…………」
 いけずうずうしい、と延彦が男を睨み付ける。
「女が拾いに来るって言うからさ。なあ、ホントに駄目?」
「何でオレが……っ」
 これ以上付き合っていられるかと延彦が激した声を張り上げる。だが最前まで鎖で締め上げられていた喉が出すその声は弱々しい。
「乗せてくれねーなら…………もういっぺんするぜ?」
 それがどうして脅し文句になるのかという疑問は持たぬのか、含むような笑顔を浮かべた速見が延彦へと視線を向ける。
「え」
 一瞬何のことか分からずに呆けたような目を見せた延彦だったが、すぐに気づいて目を見開き。
 その視線が吸い寄せられるように男の唇へとたどり着いた。
 それから―――右手の鎖に。
「…………あ」
 こくん、と喉が鳴る。
 男を見つめる延彦の唇が小さく開き、欲するようにひくりと震え―――。
 ハッとして我に返り、慌てて目をそらした。
「―――早く乗れ」
 顔をそむけるようにして背を向けた延彦が、命令口調で男を促す。
 その横顔は夜目にもうっすらと赤く染まっていた。
「サンキュ」
 その背後で音を立てずに笑った速見は、おとなしくその後を付いて歩き出した。


「ふーん。アタマは入るけど振り回すにはボディが重いな」
 百キロぐらい違うか?
 躰でつかんだ感覚を重量レートに換算しながら速見が口にする。
「お前……走り屋なのか?」
「……そんな御大層なもんじゃない」
 その口調にふと何かを感じた延彦がちらりと横目で見ると、男はフロントガラスの向こうに広がっている暗闇へと視線を投げていた。
「走るのが好きなだけさ。特に夜は……な」
 その口元に浮かぶのは―――柔らかい笑み。
 さっきまでの男と同じ人間だとはとても思えないような優しい表情。
「…………」
 本当のことを言えよ、と追求の手を緩めずに問い詰めようとした延彦だったが言葉を継げずに唇を震わせる。
 自分が冷静さを欠いていることは分かっていた。
―――なぜ自分はこんなにも……この男に。
「またオレに会いたいか?」
 押し黙る気配に振り向いた速見が片目をつぶり、延彦に向かってウィンクを投げてよこした。
「…………ッ」
 そこまでを思っていたわけではなくとも、男のことを考えていたことに気づかれて延彦がカッと頬を染める。
「どうだろうな」
「それは……」
 肩をすくめた男にどういう意味だと尋ねる前に、相手が口を開いた。
「ああ、この辺でいい。待ち合わせがあるんだ」
「ふ、ふうん。……さっきの……女か?」
 つとめて冷静な声を出そうとしている延彦だったが、その顔にはどことなく複雑そうな色が浮かんでいた。わずかに不満そうな。
 流した視線でそれを目にした速見が、音を立てずにくすりと笑う。
「まあ、そんなところだ」
 そう言いながら笑った男の笑顔が愛しいものに向けられるものであることを知って延彦の眉根がわずかに寄る。
 さっきと同じ色をした優しい笑み。
 延彦に向かわない笑顔。
「ありがとな」
 道脇に停まったアルテッツァのドアを開け、車外へ降り立った男がかがみ込んでコンコン、とウィンドを叩く。
「……あ」
「あばよ」
 あっさりとそれだけを言ってヒラヒラと片手を振った男の背を、延彦は視線で追い―――その姿が茂みの向こうへと消えるまでじっと見つめていた。