「ここいらの筈だったよな。―――どこ置いたっけ」
 林道を少しばかり踏み越えたところにある空き地で足を止めた速見は、ぐるりと周囲を見渡した。
「と。めーっけ」
 やや離れた場所に見慣れた赤のボディを発見して足を向ける。
「―――純情なもんだなあ。女よりもコロリと引っかかりやがる。あれで世の中渡っていけんのかねえ」
 まるで相手を気遣っているような言葉をごく軽い口調で言ってのけた男は、煙草をくわえながらマッチの箱を取り出した。
 シュッという小さな擦過音とともに、闇の中をオレンジの炎が踊る。
 たどり着いた赤の愛車に背を預けながら白い筒先に火を移し、片手を振って炎を消し去った。
 細い煙を漂わせていた木片から完全に火が消えたことを確認すると、指先でピン―――と暗がりに弾き飛ばす。
「……力のあるものが強い、か」
 吐き出された紫煙と一緒に、声が風に流れた。
「オレだって…………そう思ってたさ」
 ごく低い声が静かに呟く。
 だがそれだけでは足りないのだ。
 暴力などあまりにもちっぽけな力でしかなくて。
 そんなものを多少持っていたところでどうにもならぬことはあるのだと。
 手にしていたものすら望まず失うことだってあるのだと。
 どんなに欲しても手に入らぬものが。
 どんなに求めても叶わぬことが。
 どんな力を持ってしてさえも―――どうにもならぬことだってあるのだと、今は知っている。

 煙草を唇に運んだ速見の右手で、シャリンと澄んだ音色が鳴った。
「…………」
 肺腑の奥に送った煙を吐き出しながら、揺れる銀鎖に視線を当てる。
 この手にはもう、凶々しいブラックチェーンはない。
 だが段違いに殺傷能力を落としたとは言え、捨てたはずのそれを再び手にした自分がここにはいる。
 たとえこれが自分の弱さだったとしても―――。
 それでも、自分の大切なものを守るためにはこんな力でも必要なことがいくつかはあって。かつての自分のような輩に出会うこともあって。
 強い者のみが勝者となりえる場所も、この世には確かにあるのだ。
 だから。
 こんな在りかたをする自分のすべて否定することはしないと、そう決めたのは速見自身だった。けれど―――。
「…なかなか……思うようにはいかねえもんだよなあ」
 ばさりと垂れかかる髪に隠されて表情の見えない男の唇は、ちいさな笑みを浮かべていた。
「やっぱ……直んねえのかな、オレ」
 問うような声で呟いた。
「……つっても戻る気はさらさらねーけどよ」
 あきらめることを知らない男が、くすりと笑う。
 どんなにみっともなく足掻くことになったとしても、今の自分には失いたくないものもあったから。
 ささいな騒動はあるにしても平穏に過ぎていく今の生活が愛おしかった。
 再び手にした居場所を、今はまだ手放したくなかった。
 ならば制御することは必要なのだ。
 手首に巻く銀鎖は力の所有と同時に、自分を律する戒めでもあった。
 蓋をして目を背けるのではなく、意識して行使する。
 自分が手にしている力は、請け負う役割に有利なことも時おりあるから。その中から必要量だけを見極めて    取り出して使う。
 制御された力であれば、速見はそれを振るうことにためらいを持たなかった。
 たとえそれが世間に定義されている悪との同義であったとしても。
 自らが必要と断じるのであれば。
 知っていて、あえて振るう。

 それゆえの銀鎖。
 それゆえの―――諸刃の鎖。

 今夜出会った青年から恐怖に満ちた視線を向けられたあの瞬間。
 自分の腕は反射的に鎖を放っていた。
 意図的ではなかったそれは、かつてと同じ光景を再現しようとしていた。
 侮蔑を投げつけられ嘲笑を向けられて。獣を解き放ち咆哮をあげれば―――途端に手のひらを返したような恐怖の眼差しを向けられて。
 闇雲に逃げ出す獲物を前にすれば―――強いものが弱いものを喰らうことは、自分にとって馴染みのことわりで。
―――無意識のままに鎖を投じていた。
 青年の胸ぐらをつかみ上げていたあの時。
 自分の拳が数瞬後に覚えるのだろう鼻骨がぐしゃりと柔らかく砕ける感触を、当たり前のように待ち受けていた。
 意識を無にして衝動に身を任せたあの時。
 身の裡へ巣くう獣を解放する快感に満ちていたもう一人の自分を知っている。
 獲物を求めてガチガチと牙の噛み鳴る音は、時を経た今となっても鮮やかに耳へと戻って溶け込んだ。
 長年に渡って馴染み深く傍らに置き、同化していたものだからこそ。
 それは知っていたはずなのに。
 暴走していた獣にくつわを噛ませ躰の奥に封じ込め、永い眠りに就かせようとしていても些細な刺激でほころびは生じ―――。
 ともすれば眠りから覚めようとする獣が、悦びの咆哮をあげながら封じを破ってしまいそうになる。

 もう何度、衝動に突き動かされ。
 何度―――拳を止めただろうか。

「………たかだか数年で………人間の本質が変わるワケもねーか」
 その声は、疲れたような響きを帯びていた。
「なぁ……月子」
 すべてを焼き尽くして轟々と燃えさかった炎が目の前をよぎる。切り捨てた自分の髪がメラメラと焼け焦げていった匂いが鼻先に甦る。
 Nightmare―――。
 アイスドールと呼ばれた女と自分の下に群れ集った男らと。
 荒れ狂いながら幾多の夜を駆け抜けた。道をふさぐものはすべて蹴散らかし、女の駆る赤の悍馬を供にして、四ツ輪の下にアスファルトを噛み裂いた。自分の行く手を知らぬまま、眼前のコーナーに火花を散らして突っ込んだ。
 欲しいものはすべて手に入れた。
 鎖を振るい力ずくでも自分のものにした。
 叶わぬことなど無いと思っていた。
 我慢することなど知らなかった。何ひとつ。
 当たり前のようにそこにいて、消えてしまうなど思いもよらなかった―――自分がたったひとつ大切にしていたものをこの手から失ってしまうまで。
「―――月子」
 決してセピアに色あせることのない、永遠のブルームーンアイズ。
 無情と謳われた極北の瞳。
 だが双つの氷は時おり人の温度を宿していて。
 あたたかな温もりを持つ胸に何度も癒された。
 しかし、振り向いた顔は今。
 黒髪に縁取られた白い顔は―――蒼白い月光のような双眸に咎めを含んで速見を見つめていた。
「……何やってんだろうなあ……オレ」
 限りなく優しい声音で囁いた男の唇に、ゆるやかな微笑が浮かぶ。
 気づいた時には手にしていていたものを。同化に気づかぬほど馴染んでいたものを別のものに持ち替えることは、気が遠くなるほどの時間と強靭な意思の力とが必要で―――。
 なのに手元へと引き寄せるのはごくわずか、ほんの一瞬なのだ。
 それでも今の居場所を自分の手で壊すことだけはしたくなかった。それぐらいには、日々変わらぬ今の穏やかな生活を自分は愛していた。
「なら……自分で決めたことぐれえは守らねえとな」
 しょうもね、と速見が笑う。
「オレはまだ……お前のご主人サマにも逢えてねーんだ」
 この空の下のどこかにいるはずなのになあ。
 星々の輝く夜空を見上げながら、困ったように言って息を吐く。
 だから―――。
「預かりモンは……まだオレが持ってる」
―――すまん。
 心からの詫びを口にした。
「けどなあ、名前ぐらい教えておけよ。フレイアじゃ………分からねーだろ」
 いつでも聞けると思っていたあの頃の自分を穏やかに見つめながら、静かな声で言って男がちいさく笑った。
「…………さぁてと。京一さんがお待ちかねだろうから……戻るかね」
 ゆっくりと深く煙草を吸い込んだ速見は目を細め、遥か遠くの懐かしいものを見つめるような眼差しをする。
「―――待ってちゃくれねえかも知れねーけどよ」
 とっくに帰ってたりして。
 愛しみをこめた声で冗談を言って笑ったものの、ふと真顔になって、それはありえる……と呟いた速見が、自分で口にしておきながらむっとして唇をへの字に曲げる。
「ま、しょうがねえか。京一さんだもんな」
 薄情者だと勝手に決め付けて、つれねえよなと文句を垂れた。
「……ええと。昼間とさっきで拾った情報を入力して。京一さんのオーダーぶち込めば……ある程度の基本データは出るだろ」
 無駄口を叩きながらも頭を切り替えて、おおよその情報を整理していく。
「言われた通りここの連中に手は出してないし、と。これで―――」
 任務完了、と言おうとして速見が止まった。
 その顔がカチンと凍る。
「……手ぇ出すなって言ってたのは」
 まさか。
―――あっちの意味も入ってたんじゃねえだろうな。
「……やべ。思いっきり出しちまったよ」
 今頃になって京一の真意を疑いながら、逃げ場を探すように視線を泳がせた。
「どうすっかな」
 眉根を寄せながら、しばし考える。
「言ったら怒られるよなあ……」
 京一の底冷えのするような視線を思い出して、ぶるっと身を震わせた。
「……かといって隠しといて後でバレても怒られるだろーしな」
 それならいっそのこと言っちまうか。
 深く思い悩みながらリアウィンドへ、そわ、と手を伸ばした。
 ここへ来る直前、ステッカーは隠した方がよかろうと一時的に貼り付けた黒の被膜フィルムが浮き上がっていないかどうかを確認しつつ、もう一度手で軽く撫でつける。
「でもあの人、怒ったカオもまた……イイんだよなあ」
 無表情のままではあっても微妙に怒りの気配を滲ませている京一の顔を思い出して、ニヤニヤと頬をゆるませた。
 冷たく凍りついた視線の的になることなど日常茶飯事の速見だったが、そんな顔をした京一に睨み付けられることは楽しくて―――。
「かっぱえびせんよりも止まらねえ」
 真顔で言った。
「そんじゃそろそろ―――明智平のハニーの元へ帰るとするか」
 京一のことである。
 清次が耳にしたら激怒して一撃のもとに撲殺されそうなセリフを吐き、ここにいない男への嫌がらせまでも済ませて胸をすっきりさせた速見は、意気揚々と愛車に乗り込みステアを握った。
 赤エボを発進させようとしてバックミラーを見上げた時、少し離れた場所に車影を見つけ、今夜出会った青年のことをふと思い出す。
―――あいつか?
 少しだけ考えて気にとめぬことにした。
「あんな青いの食ってもなあ。―――の前に男だし」
 興味ねえよ。
「ついオンナと間違えて……男の股ぐら撫でちまったじゃねえか」
 言いながら心底嫌そうに顔をしかめた。
「濡れるわきゃーねえだろ、オレの馬鹿」
 広げた右手に視線を落とした速見が、自分の中指を見ながらさみしく呟く。
「……条件反射ってヤツかよ」
 ッたくしょーがねえなオレも。ああやだやだッ、チクショウッ。
 自分に向かって口の中で罵りの言葉を吐き散らした。
「オマケにあんなモンまで触っちまった…………」
 自分の所行を振り返って今更のようにげんなりとする。
 もちろん、好き好んで男の勃起や尻の穴など触ったわけではない。
―――素質がありそうだったしな。
 青年が何も知らないようだったから後学のために親切にも教えてやったのだ。
 ただの嫌がらせとも言う。
 しかしそうやって心ゆくまで遊び終わった今となっては、歴然とした嫌悪感だけが残っていた。
 なにもそこまでしなくてもという話もあるのだが、しかし。
 目に付いた相手で遊ぶことへの意欲の旺盛さにかけては人後に落ちぬこの男は、楽しむためであれば自分が多少の犠牲を払うことになったとしても、遊ぶ時は徹底して遊ぶ、という悪趣味なポリシーの持ち主でもあった。
「にしても……ああいうのは女でもお引き取り願いてえもんだけどよ」
 首へ巻きつく鎖に喉を締められ男に唇を犯されながら、股間を硬く勃ち上がらせていた青年の姿を思い出して顔をしかめる。
「いくらコーフンされてもなあ…………」
 人の嗜好をとやかく言う気はないが、速見自身には人体を痛めつけることに快楽を見いだす趣味も、傷つけられて悦ぶ性癖もない。
「……大体だな、男相手に勃つかっての」
 事と次第によっては多少の枠からはみ出すことがあったとしても、自分が性欲を感じるのは女相手にである。セックスとは双方の合意の上で楽しむものだとも思っている速見にとって、危害を加えようとした同性相手に性欲をつのらせて勃起していた青年の感性はどうにも計りかねるものだった。
「あいつが楽しそうだっから―――」
 脅して悪いことをしたとは思っていたので、つい付き合ってしまったのだが。
「……サービスしすぎたよな」
 今までに踏み越えてきた悪行の数々とは裏腹に、その手のことに関しては割とまともな感覚を持っている――と自分を認識している――男は、その顔の上に嫌悪の表情を浮かべた。
「ううう、口が穢れた」
 赤エボのドアを開けてコクピットに収まった速見は、ごしごしと拳で唇をぬぐいながらセンターボックスを開け、指で中を探る。
「あら?グリーンガムがねえよ」
 四角い箱の中を隅から隅までを探っても目当てのものが見当たらないことへ更に顔をしかめたが、ないものはない。仕方なくあきらめた。
「―――いちおう念には念を入れて、と」
 手元を操作してマフラーの切替えスイッチをカチリと入れて消音にする。
 ゆっくりとアクセルを踏み込んで愛車をスタートさせた。
 ブーストが立ち上がってブローオフが開栓せぬよう目の端でタコメータの針をチラと見ながら、回転の上がる手前でシフトアップしていく。
「これからは―――」
 擦りすぎてヒリつく唇に舌を伸ばしてペロリと舐めた。
「―――モンダミンでも常備しとくか」
 ふざけた男のふざけた呟きをひとつ残して、真紅のランエボ3はその場から姿を消したのだった。