手にしたランタンの小さな灯りだけを頼りに、慣れた足取りで未舗装の荒れた道を歩く小柄な姿があった。
 新月闇である今晩、目の前にはいつもより黒々として見える大きな影が左右に広がっている。昼間には鬱蒼とした密林の姿でたたずむその森の、西端をかすめるように伸びている道をあともう少し歩けば家にたどり着くはずだった。

『遅くなっちゃった』
 闇が立ちこめている中を、迷いのない足取りで歩き続けている人影の唇からもれた声は、若い娘のものだった。
『あの子達、お腹すかせてるよね……』
 呟きながら、手にした包みを胸の中にぎゅっと抱き込む。
 茶色の紙袋の中からは、まだ温もりが伝わってきていた。
 家で待っている弟達に早く食べさせてやろうと気がせいてその歩みを速めようとした時。
『―――ようニーナ。店は終わったのか?』
 唐突に横合いから声が投げかけられた。
 身をすくめた娘の足が怯えたようにびくりと止まる。
『…………あんたたち』
 木立の影に身を隠していた男たちが姿を現すのを目にして、ジリ、と後ずさった。1、2―――全部で4人いる。
 手にしたランタンからもれ出す光が、崩れた服装の男たちの姿を闇の中にぼんやりと浮かび上がらせていた。
『フン、その様子だと俺達の用事は分かってるらしいな』
 1人の男が馴れ馴れしい笑みを浮かべながら娘に歩み寄ると、残りの3人が無言でその周りを取り囲んだ。
『………………』
 きり、と唇を噛みしめながら娘が彼らを睨みつける。
『そろそろ観念した方がいいんじゃねぇのか?小間物屋なんぞ開いてるだけで工面できるような額でもねぇだろ』
『まだあと2ヶ月近くもあるじゃない!』
『ふん、作れやしねえって』
 鼻先で嘲笑った男がなぶるような視線を娘に向ける。
『俺達は貸した金を返して欲しいだけなんだがな。返せねぇってんなら……お前を売り飛ばすことになるぜ?』
 にたりと笑う男の醜悪な顔が闇の中に照らし出された。
『い、いやよ。そしたら弟達の面倒は誰が見るのっ』
 強気な態度で言い返しながらも、不穏な気配を察した娘の視線が活路を探して右へ左へと素早く動く。
 だが油断なく目を光らせている男たちは隙を見せない。
『んなこたぁ、俺達にゃ関係ねぇよ。恨むんなら借金作るだけ作ってトンズラしたてめぇの親父を恨むんだな』
『そういうこった』
 嘲りながら男たちが一斉にゲラゲラと笑う。
『あきらめな、俺達と来るんだ』
『いやっ、誰か―――!!』
 伸びてきた手に腕をつかまれて進退窮まった娘が反射的に叫びをあげる。
 胸に抱いていた包みが、地面の上にバサリと落ちた。
『おいおい、こんな夜更けにここを通る奴なんかいねぇぜ?いたとしても関わり合いにはなりたくねぇだろうよ』
 腕の中に獲物を捕らえて悦に入った男がクククと笑った。
『なあ、モノは相談なんだがよ。マーケットへ流す前にオレ達が味見してやるってのはどうだ?』
 周りを取り囲んでいた男の1人が下卑た声をもらす。
 その視線は弱々しくもがく娘の胸や腰を舐め回していた。
『そりゃいい考えだ』
『悪くねぇな』
『……ああ、先に戴いちまうか』
 タンクトップにミニスカート。赤道直下であるこの地方では特に珍しくもない恰好をしている娘の、申し訳程度に覆われている白い肌に男たちの視線がねっとり吸いつく。
 彼らの喉がごくりと鳴った。
『何よ、あんたたち……離してッ』
 耳にした台詞と、あからさまな欲望を浮かべている男たちの眼に怯みながらも、娘が相手の腕を振りほどこうとする。
『おっと、逃がしゃしねえよ』
 暴れる躰を押さえつけた男は細腕をつかんで後ろに捻り上げると、娘の耳朶に生臭い息を吹きかけた。
『どうせ生娘じゃあないんだろ?お高く止まるなって』
 獲物を嬲りながら早くも昂奮して男の顔が醜く引き歪む。
『そうそう、いい思いをさせてやるからおとなしくしてな』
 横合いから言った男の目も欲望で血走っていた。
 浅ましい獣欲に満ちた男たちの荒い息遣いが地面を這う。

 この時、ジャリ―――と。
 その場にいる人間には聞こえぬほどのかすかな音がした。

『いやッ!やめてよッ!!』
 男の手で躰をまさぐられた娘が嫌悪感に悲鳴をあげる。
『おい、早く済ませろよ』
『次の順番決めとこうぜ。コインじゃどうだ』
『いいぜ。俺は表だ』
 銅貨が取り出される間にも、娘の服が引き裂かれていく。
『離してよ!!イヤだって言ってるでしょ!』
『おとなしくしてねぇと痛い目見るぜ?』
 チィイインと金属が鋭く弾かれる音と、人体が激しくもみ合う物音が闇の中で交錯した。
『やめてってば!いやぁあッ!!』
 ?Socorro!
 あきらめの響きを帯びつつも、助けて!と叫んだ娘の声へ呼応するようにして。
 ザンッ―――と生ぬるい夜風が吹いた。
 同時に得体の知れぬ気配が周囲へと満ちていく。
『…………?』
 寄ってたかって娘に不埒な行為をしようとしていた男たちが、うっそりと顔をあげた。
 本能的に不穏なものを嗅ぎつけて、いぶかしげな表情を浮かべながら闇の中で顔を見合わせる。

 ドスッ。―――ゴッ。

『ギャアアアアッ!!』
 唐突に闇を切り裂いて悲鳴があがった。

 ガツッ、ゴキッ!

『おいどうしたッ!返事をしろッ!!』
 状況が飲み込めずに慌てふためく男たちをよそにして、立て続けの打撃音が響き、魂切る絶叫がふたたび聞こえ。
 そして声はいきなり途絶えた。 
『……畜生ッ!やられてるぞッ!!』
『何だと!何がどうなってる!?』
『う……ぁ……何かいるぞッ!!』
 残ったうちの1人が叫び、その声に全員の動きが止まる。
―――何かがいる。何か恐ろしいものが。
 ようやくそれに気づいた男たちが恐怖に凍りついた。
 じわりとその場に満ちていくのは獣の気配。
 人が放つ殺気とも闘気とも違う、異質な悪寒。
 粟立つ肌に、男たちは殺戮の予感を覚えるしかなかった。
 この場にいる者は皆、その運命しか許されぬのだと。
『ヒ…ィ……』
『逃げ―――』
 言葉も途中のまま身を翻し、猛然と走り出した男の横で空気がブンッと唸りをあげて、直後にボキリと骨の砕ける異音が響いた。
『ウワァアアアッ!!』
 ごく間近からあがった絶叫に、残る2人の躰が硬直する。
『一体何がいるんだ……ッ!!』
『オンサでも出たのか!?』
『じょ、冗談じゃねえよッ!!喰われてたまるかッ』
 獲物にありつけず、飢えのあまり時おり村を襲うことがある大型の肉食獣を思い浮かべた男たちが恐慌をきたして、身も世もなく悲鳴をあげる。
 腹を空かせたその獣の白い牙や強靱な顎、鋭い爪から逃れるすべはない。
 今までに何人もの人間が餌食になっている。
 そうと知りつつも動かぬ躰を叱咤して、必死にその場を離れようとする。
 しかし彼らの努力も虚しく、黒い影が闇を疾った。

 ガッ。ドスッ。―――ボキィッ。

『げふ…ッ』
『ぐええッ!』
 骨が折れる不気味な音と、呻き声がいくつも続く。
『な……に……?』
 男たちの手を逃れて草むらの中で息を潜めていた娘が、破れた服を胸元にかき集めながら怯えの色に瞳を揺らす。
 周囲が闇に閉ざされていて何が起きているのかよく分からないことがさらに恐れを呼び寄せていた。手にしていたランタンは男たちとのもみ合いの最中に地面へ落としてしまっていて、唯一の灯りはとうに消えている。
 身動きひとつできずに息を潜めながら見つめる闇の中で。
『が……ぁ……』

 グシャッ。ミシリ。

『……ク……ソ……』
 最後の男が怨嗟に満ちたうめきをあげて、唇から血泡を撒き散らしながら地面へと倒れこむ。

 そして静寂が訪れた。
 真っ暗な闇の中、彼女の周囲にはまるで一連の出来事が嘘であったかのような深い静けさが広がっている。
 だが夢ではない証拠に、男たちはみな不自然な格好で地面に横たわったまま、ピクリとも動かない。
『オンサ……?』
 娘が、最前耳にした名を小声で呟く。
 声に反応したのか、男たちの間で黒い影がのそりと動いた。
『きゃ……』
 悲鳴をもらした娘が息を飲みながら見守る中、屈みこんだままの姿で動きを止めていた影がゆるやかに身を起こす。
 丸めていた背を伸ばして立ち上がり、一歩を踏み出そうとしたその躰がぐらりとわずか左に揺れた。
 どこか危うさのあるぎごちない動きだった。
 だが、紛れもなく2本の足で立っている。
―――オンサ……違う。……人間……?
『……だ……れ』
 凍り付いている喉から必死になって声を絞り出した。
 その声に丈高い影がゆっくりと振り返る。
『……ァ……』
 相手と視線が合ったとたん、娘の喉がひゅうと喘鳴した。
 闇の中で出会った双眸。
 それは獲物を喰らう獣の眼だった。
 新たな生贄をとらえてギラリと光るふたつの眼。
『イ……ヤ……』
 この近辺に二足歩行の獣がいるなどという話は聞いたことがない。しかし現実に今、自分の前に立っている相手は人の気配を漂わせてはいないのだ。
 確かに人の姿をして見えるのに、まるで夜行性の肉食獣のように物騒な気配を放つ黒い影。
 その影がうっそりと動いて向きを変えた。こちらへと。
 娘の目が大きく見開かれる。
『……イヤ……来ないで……。来ないで―――っ!!』
 気づいた時には絶叫していた。
 その声に打たれたようにして相手の足がぴたりと止まる。
「……ア……」
 しわがれた声で人語を発した。
 まるで久しく声帯を使っていないとでもいうような。
『イヤ…………来ないで………イヤ……』
 娘の唇がただそれだけを繰り返す。
 しかし助けを乞うたところで、話の通じるような相手だとは思えなかった。
 自分もあの男たちと同じ運命をたどるのだと固くそう信じて、絶望に駆られながらぎゅっと眼をつぶって時を待つ。
 だがしかし、気配は現れた時と同じような唐突さで、その場からふっと消えたのだった。

『…………?』

 膠で貼り付けられたような瞼を恐る恐る開いてみた。
 黒い人影はどこにも見当たらない。
『なん……だった……の?』
 しばらく茫然としていた娘がよろよろと立ち上がる。
 やがて、地面に倒れ伏している男たちには目もくれず、おぼつかない足取りで家の方角へと向かって歩き出した。