「―――だいぶ人間らしい顔つきになったな、ハヤミ」 ソーダ1本、と声をかけてカウンタースツールに腰をかけ、胸元から煙草を取り出している男の横顔を眺めながら、ビセンテは感慨深い声をもらした。 「そう?」 「なんせここへ来たばっかりの時にゃあ全然喋らねえわ酒は頼まねえわで、陰気な顔してずーっと座ってるだけでよ。どこ見てるんだか分からねえ目でぼうっとしてたっけな」 昔語りでもするような親父の台詞に口を挟むことなく、速見は手にした小箱からマッチを抜き出すと、唇にくわえた煙草の筒先に火をつけた。 「いくらさびれたホテルの添え物ような店だってもな、ここはバーなんだぜ?」 分かってるか?と言いながらしかめっつらしい顔をしたビセンテが、紫煙を吐き出し始めた男の横顔に視線を当てる。 「怖がって客が寄りつかなくなっちまう。人でも殺してきたような顔してよ。何度つまみ出そうと思ったことか」 店の親父は大仰に両手を広げながらそう言った。 「――――――」 聞いているのかいないのか、速見はどこ吹く風といった顔で煙草をくわえたまま、唇から旨そうに紫煙を吐いている。 「絡まれりゃあ、死んでるようなツラのまま片っ端から叩きのめすわ、目の前に人が立てば殴り倒すわで……」 そう言って言葉を止めたビセンテは、開いての顔を見ながら少しは手加減してやれよとため息をついた。 「……どうも騒ぎばっかり起こしてたみてえだな」 ようやく速見が口を開いた。 そう言いながらもどこを眺めているのか視線を返さぬままの男の口元には、ごく淡い笑みが浮かんでいる。 「人事のように言うんじゃない」 憮然とした顔で腰に手を当てたビセンテが、相手の顔の前に太い指をつきつけた。 「人間てのは、異物が混じってりゃあ本能的に排除しようとするんだぜ?」 可哀想なことを、と同情の表情を浮かべて見せる。 「―――知ってるさ」 返ってこないと思っていた返事が返ってきたことよりも、その口調と声の低さに驚いてビセンテが男を見つめた。 その顔の下で何かを思いだしたような表情がふと動く。 言い淀むようにしながら舌で唇を舐めて何度も湿らせた。 「……そういや、マリアが行き倒れてたお前さんを拾った日の前の晩のことなんだがな…………」 言葉を濁した男が探るような視線を速見に向けた。 「ああ」 悠然とした態度でそれを頬に受け止めながら、男が口元に煙草を運ぶ。 「村はずれに大怪我して倒れてた連中がいてな。もともとタチのよくない男たちだったから大した騒ぎにはならなかったんだが……どうも病院に担ぎこまれた連中はオンサに襲われたって半狂乱だったらしい。けどな、医者が言うには……牙や爪にやられた怪我じゃねえんだとよ」 獣に襲われた痕跡はなかったと。 言い終えてビセンテが相手の顔をじっと見つめる。 「へえ―――それで?」 大して興味もなさそうな顔で速見が先をうながした。 「それで、って。……いや……それだけだけどよ……」 拍子抜けしたような顔で言った男は口ごもりながら、困ったように両手を広げるゼスチャーをした。 「ふぅん」 速見が変わらず無関心な態度で相槌を打つ。 「………まさか、やったのはお前さんじゃねえだろうな」 カウンターから身を乗り出したビセンテが、口元に手を当てながら潜めたような声で尋ねかけた。 「さあ、どうだろうな」 言いながら速見が唇から大きく紫煙を吐き出した。 薄暗い店内の中、白い煙がゆらりと周囲に漂っていく。 「おい勘弁してくれよ。腕自慢の男どもがそろって血まみれで何本も骨を折られて…人間業じゃなかったそうだぞ」 言いながらビセンテが眉をひそめる。 「―――あの頃のことはあんまり覚えてねえんだよ」 ふ、と笑った男はそう言って小さく肩をすくめてみせた。 「…………ハヤミ」 誰に向かってか救いを求めるような声で、ビセンテが小さく囁く。 「けどオレがこの店で暴れたのは確かなことだろ。あんたにも……すまなかったな」 世話かけて悪かったよと言いながら速見が苦笑した。 何度も騒ぎを起こしたのに村の駐在所へ突き出されずに済んだのは、ひとえにビセンテのお陰だった。マリアの古馴染みであるこの男は、村の顔役の1人でもあるらしい。 「まあ、あんたの見かけが見かけだからな」 ビセンテはそう言いながら改めて速見へと目を向けた。 上背はあるものの甘さを帯びたマスクと柔らかに波打つ髪とが相まって、間違っても屈強には見えない男の容姿を遠慮のない視線で眺め下ろす。 「絡んできた連中も気軽にからかったんだろう。それが、おとなしい家畜だと思ってたら凶暴な猛獣だったってわけさ。気づいた時にゃもう後の祭りだって仕掛けだ。奴らにとってはまあ災難な話だったな」 どことなく嬉しそうな様子で言いながら、ビセンテが太った両手をこすり合わせる。 「その割にはあんた、止めに入らなかったな?」 ふと気づいた速見が片眉をあげながら相手を見た。 「うちの飲み代を踏み倒してる奴らも混じってたんでね。他の人間には申し訳ないが目をつぶらせてもらった」 にこにこと嬉しそうな顔をした親父があっさり答えた。 「このタヌキが」 速見がふんと鼻先で笑う。 「まあいいけどよ。そうやって計算高い割には、最初から親切だったよな、あんた。……そういや初めにオレんとこへ持ってきた酒は―――」 「マルガリータ」 続きを引き取った親父の声に速見がうなずく。 確かそうだった。 グラスの縁を塩の結晶で飾った淡い月色の酒。 恋人の腕の中で帰らぬ人となった女の名を持つカクテル。 「―――何でだ?」 なにげない声で速見が尋ねる。 「いや何となく、さ。あんたの様子が恋人でも死んだのかと思ってな」 ビヤ樽のような腹をした男は不器用に片目をつぶり下手くそなウィンクをしてみせると、冷蔵庫の中からソーダの瓶を取り出してカウンターの上に勢いよくダンッと置いた。 「よく分かったな、実はそうなんだ。同情してくれる?」 ソーダに手を伸ばしながら軽薄な口調で速見が返す。 「ああ。ベッドの中でならもっとしてやるさ」 含みのある口調で言ったビセンテは目の前の腕に触れ、内側を指でするりと撫で上げながらニヤニヤ笑った。 「……シット。悪いが他を当たってくれ」 一瞬にしてソーダごと素早く手を引っ込めた速見が、撫でられた場所をゴシゴシとこすりながら嫌そうな顔で相手を睨む。 「そういう顔もそそるな、もっとさせてみたくなる」 「チクショウ、下心つきだったのか。どうりで優しいと思ったぜ。今までのあんたの親切一つ一つに黒マジックで大きくペケを書いてやる。オレは女が好きなんだ」 未練たらしい顔を見せている親父に向かって、速見は唇をへの字に曲げてみせた。 「ハヤミの眼―――」 目の前の男の顔を見つめたビセンテがふともらす。 「何だよ?」 その声に何かを感じて真顔に戻った速見が視線を戻した。 「お前―――女を幸せにしない男だろう」 断言するではなく、ビセンテがぽつりとそう言った。 「…………痛えなあ」 その言葉にはただ苦笑するしかなくて。 一瞬押し黙ったあとで速見は唇に笑みを刻んだ。 「なんだ。そうなのか?」 自分で言っておきながらビセンテが驚いたように聞き返す。 「あんたがそう言ったんだろ。ま、そう外れちゃいねえよ」 ひょいと肩をすくめた速見が唇を歪めて見せた。 「恋人が死んだと言ったな。ふむ、じゃあお前は"Death"か?」 ビセンテがおどけた表情を浮かべながら両手を腰に当てる。 「……いいや?」 "Death"……死神、か。 どっちがマシなんだか知らねえが。 「オレは"Nightmare"―――――さ」 そう言って速見は低く笑った。 「それってどんな悪夢なの?」 カウンターへと歩み寄ってきた小柄な人影が背後に立ったと思うや、若い娘の声が聞こえた。 「―――美人の匂いがする」 振り向きもせずにくんと鼻をひくつかせた速見が、しごく真面目な顔で言った。 「顔も見ないで分からないでしょ?」 呆れたような声が頭上から降ってくる。 「それが分かるんだな……と、ほら。美人だった」 腰かけていたストールを回して躰ごと振り返った速見が、目の前に立っている娘に向かって愛想よく微笑みかけた。 年の頃は十代の後半か。 すらりとした小柄な肢体と陽に灼けた小麦色の肌に、ショートカットの黒髪がよく似合っていた。 「口の上手い男は信用しちゃダメだって、死んだ母さんが言ってたわ」 軽く唇を尖らせながらそう言った娘が、にらむような視線を男に向ける。 「まあそう言うなよ。こんなに月の綺麗な晩に出会ったんだ。悪夢の話なんかするよりも、オレはできればスイートドリームが見たいんだけど」 楽しそうに笑った男がさりげなく娘の腰に手を回した。 「ハヤミだ。―――きみの名前は?」 自分の名を告げて相手にも尋ねる。 「ニーナ」 「"NINA"か。"女の子"ってよりも、もう立派なレディだけどな。良かったら一緒に飲まねえ?奢るぜ」 そう言いながら速見が娘に向かって片目をつぶった。 秘かに目をつけていた気に入りの青年を、突然現れた若い娘にかっさらわれた形になるビセンテが、あとは勝手にやってくれと言わんばかりに両手を広げて肩をすくめる。 それを目の端に捕らえつつ、速見は笑みを浮かべながら自分のテーブルへと娘を誘った。 「―――ふうん。ハヤミって、ハポン……ていうの?そこの人なんだ」 「そ」 「でも旅行者……じゃないよね。今どこに住んでるの?」 「旅行―――ねえ。まあ居ついてるのは確かだけどな。海際にあるコテージ、知ってるか?掘っ建て小屋みたいなオンボロの」 片腕に抱いている娘からの問いかけに、速見は笑いを含んだ口調で教えながら手にしたグラスの酒を一口あおった。 「マリアのホテル?悪いよ、そんなこと言ったら」 そう言いながら娘もその安宿の評判は知っているのか、くすくすと小さく笑った。 「だってシャワーが付いてるってもよ、水が出ねえ日があるんだぜ?すぐ隣に海があるからって言っても、あんまりだと思わねえ?だからって海で水浴びして潮だらけのままベッドに入ると後でマリアにどやされるしよ。……ったく勘弁して欲しいよな」 仏頂面を浮かべる男を目にして、娘がさらに声を立てておかしそうに笑う。 話し上手、というよりもむしろ笑わせ上手な男と他愛もない会話を交わすうちに、ニーナと名乗った娘は少しずつ打ち解けていった。 なにげなく肩を抱き寄せられた時も少しだけ身を強ばらせたものの、男の手が優しく撫でるだけでそれ以上のことはしないと分かると緊張を解きほぐし、今は隣り合う躰から伝わってくる体温に安心する様子さえ見せながら身を寄せている。 「ハヤミはここで仕事してないの?」 「しなくても当分食っていけるぐらいの金はあるんでね」 それを耳にしたニーナの瞳の奥で、ごくかすかな光がまたたいた。 「まあ食い扶持ぐらいは稼いでるぜ。っても就業ビザは持ってねえから雇っては貰えねえけどな」 「仕事に就けないのに稼ぐって……何して?」 ふざけた口調で言ってウィンクをした男に尋ね返しながら、ニーナの瞳は迷うような色を浮かべて揺れていた。 「狩り」 しかし端的なそれを耳にして驚いたように目を丸くする。 「ハヤミって猟師?ハポンでも狩りしてたの?」 「――――――」 娘の無邪気な問いかけに速見がぐっと詰まった。 知らぬこととはいえ、なかなか痛いところを突いてくる。 しかし、いささか意味は違うものの、自分が故郷の地で似たようなことをしていたのは確かなことで。 答えようがなくてウーンと唸ったまま空を振りあおいだ。 「どうしたの?」 唸りながら何やら苦悶しているらしき男の様子を、おかしそうに見つめながらニーナが尋ねる。 「……狩りは得意なの」 速見はガシガシと髪をかきあげながらそう言った。 問いの答えにはなっていないが、嘘を言っているわけでもない。 「そうなの?」 「そうなの!」 どんなに無邪気に聞かれようともそれ以上は答えようがなく、がうっと歯を剥いた男を見て娘がくすくすと笑いをもらした。 「でもハヤミはこの島に何しに来たの?」 どうやらニーナにとっては、見知らぬ国からやってきた異邦人の男が珍しいらしい。可愛らしい唇から、ぽんぽんといくつもの質問が飛び出してくる。 「ただの成り行き。気がついたらここに着いてた」 「なにそれ。よく分からないよ。ハポンて遠いんでしょ」 娘のくすくす笑いがさらに大きくなった。 「―――おっと」 笑いすぎて椅子から落ちそうになった娘の躰を抱きとめて、そのまま腕の中へと引き寄せる。 「あ……ありがとハヤミ」 ニーナがびっくりしたように言いながら男を見上げた。 2人の視線が絡みあう。 「―――色気のねえ身上調査はもう終わったのか?」 自分の広い胸の中に抱き込んだ娘の瞳を見つめながら、速見がやわらかな声音で囁いた。 「あ、ごめんなさい。気を悪くした?」 男の顔を見上げた娘が申し訳なさそうな声で謝る。 「そんなことはねえよ。ニーナ、この後はヒマ?」 「……うん、用事はないけど」 「それなら―――オレのベッドに泊まりに来ねえか」 そろそろ独り寝も淋しいんだ。 速見は囁きながら、腕の中の躰を引き寄せて抱きしめた。 鼻先に甘い香りがふわりと漂う。 もぎたての果実のようなみずみずしい匂い。 「ハヤミ……慰めてくれるような彼女はいないの?」 女が放ってはおかないような外見をしている男に、ニーナが疑い深そうな視線を向ける。 「それがいないんだよな」 「…………」 残念そうに言って笑った男を見つめながら、娘が迷うような顔を見せた。 「だめ?」 速見が柔らかな唇を探り当てながら吐息で尋ねる。 「うん……いい、よ」 かすかな声をもらしながら娘が男の口吻けを受け取った。 |