「……ックショッ!!」 急いで口元を押さえたが遅かった。 大きくクシャミをした途端、ザンッ――と音がして目の前を茶色の影が横切った。 「あーあーあー」 茂みの影からがっかりしたような声があがる。 細くとも強靭な脚で跳ねていく獲物の白い尻毛が見えた。 「くそ、せっかくの大物に逃げられたじゃねえかよ。誰だ、オレの噂してやがんのは」 チ、と忌々しげに舌打ちしながら速見がため息をつく。 だがすぐに。 「…………腹減った…………」 力なく呟いた。 「背中とオナカがくっつくぞ、ってな」 手にしていた山刀を腰のベルトの後ろへ無造作に差しこむと、地面に置いていた麻袋を取り上げて、中へ突っ込んだ手で黄橙色のフルーツを取り出した。 「こんなもんじゃ腹の足しにならねえっての」 頑丈な歯で皮を裂き、中にぎっしりとつまっている黒い種子を地面にペッペッと吐き散らしながら、甘酸っぱい果肉にかじりつく。 「今日は不作だな……仕方ねえから店に食いに行くか」 にしても、これじゃあ酒代ぐれえにしかならねえぞ。 持ち上げた麻袋の重さを確かめながら顔をしかめた。 中には今食べているのと同じ果物が山と詰まっている。 口の中に広がる甘い果汁を飲み下しながら空を見上げた。 「もうメシどきだよな」 時間の感覚を無くして久しいが、茜色に焼けた空と自分の腹具合がそろそろ夕飯時だと告げている。 「そろそろ戻るか」 手にした麻袋をひょいと肩に担ぐと、慣れた足取りで森の中を歩き始めた。 「―――ん?」 しばらく歩いているうちに速見の歩みがふと止まる。 その視線は地面の一点を見つめていた。 黒々とした泥土の上で、ピンク色の小さな生きもの。 生まれたばかりの鳥のヒナだった。 薄桃色の肌が剥き出しの裸体にはまだ毛も生えていない。 目が開くべき場所もまだ薄い被膜で覆われていて、その奥に黒い色がうっすらと見えているだけだった。 弱々しくではあるが、まだひくひくと動いている。 梢を見上げると遙かな高みに巣があるのが目に見えた。 「あそこから落ちたのか」 自分の力だけで巣の縁を超えられるとも思えない。 おそらく他のヒナ鳥達に押し出されたのであろう。 重さがないせいで落下の衝撃には耐えられたのだろうが、いずれにせよこのままではほどなくして命尽きることは間違いなかった。 「いっくら腹が減ってるって言っても、こんな小せえの食ってもしょうがねえし」 ひと口で丸呑みだもんな。 空きっ腹を抱えていることもあり、一瞬、意地汚く取って食おうかとも思ったのだが、ゆえあってあきらめた。 以前火種を持っていなかった時に捕らえた野兎を、空腹に耐えかねて山刀で切り裂いて生血を啜り肉を喰らったところ、後で激しく腹を下したことがあるのだった。 それ以来、捕らえた動物を生のままで口にすることは一応避けることにしている。 「仕方ねえか。誰かが食べてくれるの、そこで待ってな」 もしくは誰の、いやどんな動物の目にも触れぬまま朽ち果ててやがては溶け崩れ、この地の養分と化していくのか。 食うものと食われるもの。 自分だとてその食物連鎖の中にある生き物で。 この生態系の中では今日に生まれる命があり、今日を生き延びる命があり。 そして、今日死んでいく命もある。 「オレもお前も、そのうちのひとつだ……」 ヒナを見つめながら速見が地面に呟きを落とした。 このヒナ鳥はその生存競争から脱落してゆくものだった。 巣から押し出されるような個体は元より命の力が弱いのだ。 弱肉強食で成り立っている過酷な自然界においては、それだけでも淘汰される立派な理由となってしまう。 その真理にあっては、強者である自分がその生き物を哀れだと思うことは傲慢であり、許されぬことだった。 「……オレが食ってやれなくてすまねえな」 小さな命を見つめながらそう言い残すと、男はきびすを返してくるりと背を向けた。 しばらく歩くと緑が開けて、その先に青い海が見えた。 森から出て海際に出ると、少し離れた場所にいくつかの海上コテージが立ち並んでいるのが眼に入る。 迷うことなく一番端のそれに向かおうとした速見の足取りが、何を思ったかふと鈍る。 「こんな泥だらけのままで部屋に戻ったら、後でマリアにどやされるのは間違いねえよな」 今までにも、貸しコテージのオーナーである陽気な年輩女性からは何度も叱りつけられている。せめて手と足ぐらいは洗って帰ろうかと自分の躰を見下ろした。 熱帯地方に属するこの地域では短パンひとつでも暑いぐらいだったが、森の中に生いしげる灌木は枝先が鋭利なので、無用の切り傷をつくらぬようにと速見は足首までを覆うジーンズを履いている。 だが毎日の酷使に耐えかねてあちこち破れかけている布地と剥き出しの上半身には、乾いた泥がこびりついていた。 「ついでだ、丸ごと洗っちまうか」 部屋に戻ったら水しか出ないシャワーで潮を流せばよかろうと判断し、少しばかり海へ寄っていくことにした。 手にしていた麻袋と山刀を砂浜の上に置いて乱雑に服を脱ぎ捨ると、あたたかく感じる水を蹴散らしながらじゃばじゃばと海の中に入っていく。 故郷の海とは違うコバルトグリーンをした南海の深い色。 「……ふゥ、気持ちがいいな」 ごしごしと両手で顔を擦りながら満足そうな息をもらした速見は、海の中で自分の躰の汚れを落とし始めた。 「ようビセンテ。ブエナス・ノチェス」 カウンターの中に声をかけると、夜空に浮かぶ満月を眺めていた男が振り返った。 「ハヤミか。Buenas noches. ―――いい晩だな」 「ああ、月が綺麗だ。いつものをワンセットでくれる?」 速見は声に応えながら注文すると、使い古されてヨレヨレにくたびれた紙幣を数枚、カウンターの上に放り出した。 「ちょっと待ってろ」 夜になるとマリアが経営しているホテルの軒先で店を出すバーの親父が、太った腹をゆすりながらも身軽に動き回り、背後の棚や冷蔵庫の中から数本の小瓶を取り出していく。 そのまま手渡すと思いきや、グラスに最初の一杯を作り、そらよ、と常連客に向かって差し出した。 「グラシャス。へえ、どうした風の吹き回しだよ。サービスいいじゃねえかビセンテ」 ピュウッと口笛を吹いた男が目線の位置にまでグラスを持ち上げて、片目をつぶりながら陽気な声で礼を言う。 「まあ、たまにはな」 太鼓腹を揺らしながらビセンテが豪快な笑い声をあげた。 「どんなにサービスされても男に振りまく愛想はねえぜ」 そう言って朗らかに笑う速見の顔は、男のビセンテの目から見ても充分に魅力的で―――愛想を振りまいているようにしか見えなくて。 「……まったく。お前みたいなのはどうせ大方、あちこちで悪さしてきたんだろ」 しかめっ面をしながらウンターの下を探ったビセンテは忌々しそうな顔つきのまま、手にした透明なビニール袋を速見に向かって突きだした。 その中には小ぶりの青い実がいくつも詰まっている。 「ひでえな。人を外見で判断しちゃいけねえって、ここの学校じゃ教えねえのか?」 そう言いながらも、目の前にぶらさげられた袋を目にして嬉しそうに相好を崩した速見が遠慮せずに手を伸ばす。 「こんなにもらっちまっていいのかよ?」 「ああ、今日は安かったんだ。少し持っていけ」 仏頂面を保とうと努力している親父の声を聞き流しながら、さっそく袋の口を開けると中からひとつを取り出した。 カシリ。 手にした小さな青い実に歯を突き立てると、鮮烈な香りが周囲に漂った。 カラマンシィ。 濃いビリジアン・グリーンの果皮に包まれた柑橘の実。 果皮を食い破ると、わずかな甘みとともに思わず顔をしかめてしまうほどの酸っぱい果汁が口の中に満ちあふれた。 歯と唇で1つをくわえたまま、もう1つを取り上げる。 尻ポケットから折り畳みナイフを抜き出すとパチンと開き、直径3センチほどの実を手の中で2つに切った。 新たに鮮烈な香りを立ちのぼらせている実のかけらを2つともグラスの中に放り込む。 マドラーの代わりに突っ込んだ指でざっとかき混ぜ、みずみずしい香りを楽しみながらグラスを口元へと運ぶ。 「―――やっぱりこうでなくっちゃな」 淡いライムグリーンの酒をぐいとあおった速見の唇から、満足そうな声がもれた。 匂いのきついジンにライムジュースとソーダを加えて、香り立つカラマンシィの実を入れたその酒は、ここへ来てからの一番の気に入りだった。 「まあ、ゆっくりしていけ」 嬉しそうに目を細めながら酒を口にしている男を眺めたビセンテが、苦笑しながら手を振った。 「そうさせてもらうよ」 グラスからもう一口をあおった速見は片目をつぶりながらひょいと肩をすくめると、カウンターの上から残りの酒瓶をひとまとめにさらい上げてその場を離れる。 英語とスペイン語が飛び交っている店内を見回しながら空いているテーブルに移動して腰を落ち着けると、店の軒先に見えている美しい月を眺めながら杯を重ね始めた。 逆さまにした瓶の口から滴がポタリとしたたり落ちた。 「―――ソーダが切れちまったか」 残念そうに見つめながら速見がため息をつく。 何杯めかの酒を作ろうとしたのだが、緑の瓶からは少量の炭酸水が流れ出しただけで終わってしまったのだ。 手にしたそれを左右に振りながら思案顔を見せていた男だったが、やがてもう少し飲むことに決めたようだった。 身軽く立ち上がってカウンターに足を向ける。 途中で1つのテーブルの脇を通り過ぎた時、そこに座っていた娘がはっとしたように顔をあげた。 男の姿を視界に捕らえた娘の顔に、どこか怯えたような表情が浮かび上がっていく。 そしてそのまま、探るような視線で男の背を追い始めた。 |