「ここにいたのかよっ」
 バタン、と荒々しく扉が押し開けられ、息せき切った青年が店の中に飛び込んできた。
「……珍しいな真木。お前が昼間から出歩いてるなんて」
 明日は雪か?
 そう言いながら、志堂は悠然とした表情で窓の外を見た。
「るっせえよ!だってお前、ケータイにも出ねえし家にもいねえし!探したじゃねえかよっ!!」
 真木と呼ばれた青年が怒りの表情でわめき散らす。
「大して探す場所もないだろうに。……で、その携帯は俺の家の中で鳴ってたわけだな」 
 慣れた様子で相手の怒りを受け流しながら、男はテーブルの上からコーヒーカップを取り上げた。
「なに開き直ってるんだよシドー。持ち歩けっての!何のためにケータイ持たせたと思ってるんだよ?」
 唇を尖らせた青年が不満そうな声で文句をつける。
「少なくともお前の小言を聞くためじゃないだろうな」
「誰がいつ小言を…………違うっ!そうじゃねえ!!」
 流されそうになった真木がぎりっと男を睨みつけた。
「そんなに慌ててどうした。そろそろ下が暴れ始めたか?」
「いや、それはまだだ。あいつらの手綱はちゃんと……だから違う!人の話を聞けっての!!のんびり茶ぁなんか飲んでる場合じゃねえんだよっ。ハヤミの行方が……っ」
 大柄な男を見つめながら必死の眼差しをした青年が、その先を続けられずに声を途切らせる。
 台詞の最後の名を耳にして、カップを口元へ運ぼうとしていた男の手がその場で止まった。
「―――あいつがどうした」
 見つかったのか。
 テーブルの上に視線を向けたまま、ごく低い声で問う。
「……ハガキ……来た」
 喉の奥に詰まったような声でそれだけを真木が言った。
「―――葉書」
 口の中で噛み砕くようにして志堂が繰り返す。
 ということは。
「…………生きて……たのか……」
 震えてしまいそうになる息をこらえて少しずつ吐き出しながら言って、志堂はゆっくりと目をつぶった。
「てめ、縁起でもねえこと言ってんじゃねえよっ!」
 叫びはしたが真木の声も同じように震えを帯びている。
「けどな。お前もそう思ってたんだろ?」
 目をつぶったままの志堂が静かな声をもらした。
 その顔の上に、今まで押し隠していた疲労の色がじわりと浮かんでいく。それとともに安堵の色も。
 どこかで―――骸が上がるのではないのかと。
 いつか知らせが舞い込むのではないかと。
 毎晩のように悪夢に襲われて、何度も夜中に飛び起きたのは自分だけではないはずだ。
「あいつはもう……いないんじゃないか、ってな」
 瞼を押し上げた志堂は青年へと視線を向けた。
 どこかでもうとっくにあの男は、自分の手でその命を停めてしまったのではないかと。
 姿を消す前の男には、いつそうなっていてもおかしくないような危うさがあった。
 まるで、もう全てのものに執着が―――何ひとつ未練がないとでもいうような希薄な気配しか感じられなくて。
「……ん」
 込みあげる感情をこらえようとして唇を噛みながら真木が小さくうなずいた。
「―――で、どこにいるって?」
 長い夢から覚めたばかりのような表情を浮かべた志堂が、深く息を吐きながら相手に尋ねる。
「それが……エアメールなんだ」
「外ってことか。どこだ」
「消印が潰れててよく分からねえ」
「あいつが書いてないのか?」
 いぶかしげな顔をした男に向かって、
「…………読んでみろよ」
 何とも言えぬ表情を浮かべながら真木が葉書を手渡した。
 表に印刷されているのは、見るからに南国の風景だった。
 真っ青な海と白い砂をバックにパームツリーが緑の葉を広げ、極彩色の花々が咲き乱れているポストカード。
「これだけか」
 裏を返した志堂が文面の短さに眉根を寄せる。
 しかし字面を追っていくうち、しだいに男の顔が奇妙な具合に歪んでいった。
 小さく息を吐いた後で声に出して音読する。

『空が青い。海が青い。空気がうまい。メシがまずい。
 生肉を食ってゲリをした。食わねえ方がいいらしい』

「………………」
 カードに書かれているたった2行の文章を読み終わった志堂が、海よりも深く沈黙した。
「………………」
 低い声で朗々と読み上げられた文面に真木も押し黙る。
 郵便ポストにこれを発見したとたん引っつかんでここに飛んできたものの、改めて耳にした内容に崩れ落ちそうになった意識をかき集めようとして躍起になっていた。
「……何だこれは?」
 沈黙に耐えかねたように志堂が抗議の声をあげる。
「オレが知りてえよ!」
 間髪を入れずに真木が噛みついた。
「どこにいるとか元気だとか!それぐらい書いとけよな、もうっ!!ったく生肉なんか拾い食いしてんじゃねえよ!!食い意地張るにもほどがあるだろ!ケダモノかてめえはっ!!」
 今にも地団駄を踏みそうな勢いで悪態をつきまくる。
「……元気なんだろうよ」
 手にしたポストカードを眺めながら、志堂は疲れ果てたような口調で言った。
 全身へと広がっていく脱力感を免れることはできずに、真木と同様それは自分の身にも襲いかかっていたが。
 あの頃の速見は食べるものを差し出せば機械的に口へと運んだが、とうてい味が分かっているようには見えなかった。
 それが今は―――。
「メシがまずいと書いてあるんだから……元気にやってるんだろうさ」
 親指と人差し指の間に挟んだポストカードをゆらゆらと宙に揺らしながら、男の唇に穏やかな笑みが浮かぶ。
「何だよその判断基準。……やっぱ動物のセンかよ?」
 泣き出しそうな表情を浮かべながらも、真木がつられて口元をほころばせた。
「あいつは、昔から食うことにかけては旺盛だったからな」
 好きなものを順番に言ってみろと言ったら、メシ、月子、と真面目な顔で並べ始めた少年の姿を懐かしく思い出す。
「いいけどよ。……生きてるんならもっと早く……さっさと連絡寄越せってんだ」
 瞳を潤ませながら真木が恨むような声音で呟いた。
「なかなか出せなかったんだろう」
 宥めるような口調で言いながら、志堂が優しい笑みを相手に向ける。

 半身のようであった月子がこの世から消えて、そののちに様々なことが始まって。
 やがてすべてが終わった時、抜け殻のような男が後には残った。

 月子の死んだ直後から―――他チームとの間で恒例のように行われていた小競り合いはナイトメア側の一方的な討伐劇と化し、エリア内のいくつものチームが集団として形を保てぬほど壊滅的な打撃を受ける結果となった。
 まるでジェノサイドのようだったその掃討戦は――それまで志堂に預けきりだった指揮権を取り返し、相手の息の根を止めることだけを目的とした速見ひとりの手によって成しとげられたものだった。
 総動員した手持ちの配下を随所に配置し包囲網を張り巡らせて、的にかけた相手の逃げ道を残酷なまでの手口で塞ぎ、罠にかかった獲物を容赦のかけらもなく叩き潰し―――。
 毎夜のように繰り返されるその惨劇に、志堂は、月子がいなければあいつは人の形を保ち続けられないのかと思ったほどだった。
 ナイトメア。悪夢そのものの存在になり果てるのかと。
 そしてそうなる前に自分達の―――自分の手にかけることになるのかと。
 しかし。
「あいつが消えてからもう3ヶ月か。……早いものだな」
「……ああ」
 志堂の呟きに真木もため息のような声を聞かせた。
 的確な指示は下すものの表情の抜け落ちた虚ろな顔。
 争いごと以外の何に対しても反応を見せない視線。
 何ごともない時折の夜には、仲間うちの溜まり場であるこの店に顔を出してはふらりと消える。
 それを繰り返すうち、いつしか男の姿は本当に消えていた。
 馴染みの女の所を泊まり歩いているのだろうと思って、しばらくの間はそっとしておこうとしたのが裏目に出た。
 気づいた時、男の姿はもうどこにもいなかったのだ。
 どの女をつかまえて聞いてみても、自分の所には来ていない他の女の所じゃないのかという返事を聞いて、ようやく志堂は事の深刻さを悟ったのだった。
 全てのものを残して有り金だけをその手につかみ、男は身ひとつで姿を消していた。

「そういえばお前、躰の方はもういいのか」
 この店の2階で自分が見つけた時、シーツを赤い血に染めて力なくベッドの上に横たわり、意識を失っていた青年の姿を思い出しながら何気ない口ぶりで志堂が尋ねる。
「……いつの話してんだよ」
 もう大丈夫だと言って真木はちいさく笑った。
「それならいいが。―――で、あいつはいつまでそこにいる気だろうな」
 あっさりと話題を変えた男が真面目な顔で問いかける。
「ハガキ読んだんだろ。書いてねーよ」
 不貞腐れたように言った青年の表情がふと歪んだ。
「……ハヤミ……帰って来るかな……」
 そう言った声がかすれて揺れる。
 自分が犯したその罪を―――彼の愛した女の身代わりを成そうとした、その罪の重さを真木は自分の身で知っていて。
 その翌日に男は姿を消したのだ。
「ああ、そうだな」
 コーヒーカップを口元に運びながら志堂が軽く受け流した。
「どうなんだよ!」
 八つ当たりだと分かっていても止められず、未だ癒えぬ傷を瞳の中で剥き出しにしながら真木が男を強く見据える。
「……そのうち帰ってくるさ。俺達の所に、な」
 コトン、とカップをソーサーに戻した男が手を伸ばして、青年の髪をくしゃりとつかんだ。
「……そ、かな……」
「当たり前だろ?」
 すがるような目を向けられた志堂が穏やかな笑みを返す。
 このまま消えられてたまるか。

―――速見、帰ってこい。
 ここに。この場所に。

「ん。……ん、そうだよな。オレのハヤミ……」
 男の笑みに癒されながら、敢えて自分の罪を口にした真木がぐすっと音をたてながら鼻をすする。
「泣くんじゃない。それから―――どさくさに紛れてあいつと一度寝たぐらいで私物化するのもやめろ。大体あいつ、あの頃は個体の判別ついてなかったぞ」
 腫れ物に触れるようにではなく、あくまでも単なる事実として述べるような気のない口調で志堂が言った。
「少しぐらい夢見てもいいじゃねえかケチっ!!お前のもんでもねえだろっ!!それにオレは泣いてなんかいねえっ!」
 そっけない言葉を渡す年上の仲間が自分を気遣っていることは分かっていて、その優しさがあたたかくて。
 こみあげる気恥ずかしさとばつの悪さを押し隠すようにして青年が喚きたてた。
「そうか……そうだな」
 男がくつくつと喉声で低く笑う。
「なに笑ってんだよてめえ!それもこれも全部ハヤミのせいだ!ちくしょうッ、ハヤミの大馬鹿ヤロウ―――ッ」
 ぐしゃぐしゃに顔を歪めた青年が、店内に響き渡るような声で絶叫した。