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 コテージの中に朝の光が燦々と降り注ぐ中、小柄な人影がベッドの上で身を起こした。
 しばらく動かずにじっとしていたが、やがて隣の人間を起こさぬよう気をつけながらそっと抜け出した。
 ベッドから降り立った人影は、音を立てないようにしながら床に散っている服を拾い上げていく。
 ブルーの短いチューブトップに、ジップアップのミニスカート。
 娘が手早く服を身につけるのに数分とかからなかった。
 足音を忍ばせながら部屋の入口へと向かう。
 しかし扉を開けて外へ出るのではなく、その脇のテーブルの上に置かれている財布へと手を伸ばした。
 チラリと背後を振り帰り、ベッドの上に変化がないことを確かめると素早く財布をつかみ取って中を開く。
 何を見つけたのか、その手が止まった。
「このひと……綺麗」
 目にしたものに思わず小さな声をもらしてしまい、首をすくめながら慌ててベッドの方を振り返る。
 だが白いシーツの塊がぴくりとも動かないのを見て安堵すると、再び財布の中に視線を戻した。
 そして札束をつかんで抜き出した時。


「おい、有り金ぜんぶ持っていく気か?」
 不意に男の声が響いた。


「―――ッ!!」
 ビクリと身を硬ばらせた娘が素早く背後を振り返る。
「まあ、いいけどよ」
 しかし声はするものの、ベッドの上で寝ている男の姿に変化はない。
 それでも相手が自分の一連の行動を知っているのは確かなことのようだった。
「いつから……気づいてたの」
 けれど今の自分の姿を彼がまだ見ていないのなら、と。
 手にした札束を元通り財布にしまって素知らぬふりをしてしまおうかと、混乱した頭で考えながら娘が尋ねる。
「お前が起きた時から」
 白いシーツに半分ほど顔を埋めたまま、唇だけを動かして男が答えた。
「そんな―――――」
 絶望に打ちひしがれて娘がその場に立ち尽くす。
 であればもはや言い逃れることはできなかった。
 進退窮まった娘が財布と札束を手にしたまま、息を潜めながら様子をうかがう。
 この場に残って謝罪すべきか、それとも逃げ出すべきか。
 逃げるのであればこの金はどうしようと迷いながらも、無意識に手の中の紙幣をぎゅっとつかむ。
「オレに近づいたのは、最初からそれが目当てだったんだろ」
 ベッドの中の男がようやく動いた。
 シーツの下からゆっくりと手を伸ばし、ごそごそと床の上を探って煙草のパッケージをつかみ取る。
「……知ってた、の」
 囁くような声で娘が言った。
「まあな」
 のんびりした口調で言いながら速見はベッドの上に身を起こし、がっしりとした上半身を朝の光の中にさらした。
「……そんな……」
 娘の声には非難するような響きがこもっていた。
 悪いのは自分であって相手をなじる権利はないと頭では分かっていても、自分が盗人であることを―――罪を犯すであろうことを知りながらなぜここに連れて来たのかと、恨むような思いがぬぐいきれずに口調の中に滲んでしまう。
「―――ブエノス・ディアス、ニーナ」
 それには答えず、速見は戸口に立つ娘に視線を向けるとなにげない声で朝の挨拶をした。
「Buenos dias、ハヤミ」
 身についた習慣で反射的にそう返してしまってから、娘がはっとしたように目を見開いて唇を噛みしめる。
「…………」
 そんな娘の様子を黙って見つめながら、速見は髪の中に突っ込んだ指でバサバサと髪をかきあげた。
 ここ最近ビセンテのバーで姿を見かけるようになった娘が、地元の人間ではない客にそれとなく物色するような視線を投げかけていることには気づいていた。
 そうでなくても、若い娘がああいう場所で長い時間じっと一人で座っていること自体、少し目端の聞く人間であれば誰しもがおかしいと感じることだった。
 スリとしての腕前を持っていないのであれば、自分ならせめてあと1人仲間を引き入れる。稼ぎを分けなければいけないというデメリットはあるが、その代わり仕事の成功率はぐんと高くなるからだ。
 本気で盗みを働くつもりなら、この娘にもそのぐらいの狡猾さと周到さはあってしかるべきだった。
―――と。オレが考えてどうするよ。
 途中で気づいて速見が苦笑する。
 そういう商売に手を染めていたわけではないが、目的に合わせて計画を立てそれを実行するのであれば、必ず成功させなければ意味がない、という基本姿勢のもとで長らくを過ごしてきたせいで無意識のうちについ計算を働かせてしまう。
―――悪いクセだな。
 ふぅと軽い息を吐いた速見は、朝の一服をして爽快な気分になってみようと煙草の箱に視線を落とした。
 だがその頼りない薄さに眉根を寄せる。
「あら?ラスイチかよ」
 平たく潰れているソフトパッケージをのぞきこんだ男は、最後の1本を振り出して口にくわえた。
 マッチ箱から1本を抜き出して細い木片をシュッと擦る。
「悪いが2ドルだけ置いてってくれ。煙草が切れるんだ」
 手の中で小さな炎を囲い、筒先に火を移しながら娘に向かってそう言った。
 木が焦げる香ばしい香りとともに最初の一服を吸い込みながら、ぐしゃりと握りつぶしたパッケージを床に放る。
「え」
 自分が耳にしたことの意味がすぐには分からず、ニーナが虚を突かれてまばたきをした。
「その金、いるんだろ?」
 ベッド脇に置いてある一斗缶の中にマッチの燃えさしを投げ込みながら速見がたずねる。
 旨そうに煙草を吸い込みながら相手へと視線を投げた。
「…………うん」
 必死の眼差しをした娘がこっくりとうなずく。
「いいぜ、持っていきな」
 そう言いながら速見は横を向いて、吸い込んだ煙をふぅと吐き出した。
「でもそしたら……ハヤミが……」
 自分で盗み出そうとしておきながら、いざとなると良心の呵責や犯そうとしている罪の重さ、相手の生活のことまでを考えて迷っていることが娘の顔から見て取れた。
―――甘えな。てことはやっぱりシロートか。
 目の端でそれを捕らえながら速見は胸の中で呟いた。
 元より犯罪に手を染めるようにタイプには見えなかった。
 怯えた表情や途方に暮れた様子も嘘ではない。
 真実なのか装っているだけなのか。悲しいかな、その手のたぐいの嗅覚は発達している自覚があった。
 それにゆうべ、物乞いではないのだから金を受け取ったならばそれに見合うものを返すのは当たり前だと強い瞳で言い切って、速見に少年の正しさを教えた娘が盗みを良しとしているとも思えなかった。
 おそらくは何か切羽詰まった事情でもあるのだろう。
 娘は顔いっぱいに罪悪感を浮かべながら、それでも握った金から手を離さない。
「構わねえよ。好きにしな」
 その背中を押すようにしてもう一度速見が言った。
 どうせ今までに何人もの女からせびり取った金だ。
―――その金を女に使ったら、せいぜいがいいとこバチが当たるぐれえだろ。
 そんなモンとっくのとうに当たりまくって、思いっきりヘコんだからな。
 そのあげくに自分は故郷を離れて、こんなにも遠い場所まで流れて来てしまったのだ。
―――今さら1つ2つ増えたところでどうってことねえよ。

「いい……の」
 速見の思いをよそにして、たずねる娘の声は震えていた。
 心臓はきっと早鐘を打っているに違いない。
 その頬はうっすらと赤く染まっていた。
 他人の金品を強奪しようとする自分への恥辱にであろうか。
「ああ。構わねえよ」
 速見は手にした煙草を口に運びながら娘にうなずいた。
―――ますます甘えな。やるんなら徹底的にやらねえとダメなんだぜ?相手のことなんざ気にしてるようじゃな。
 いや………少なくともお前にその仕事は向いてねえよ。
 とうてい善とはいえぬ考えが頭の中で躊躇なく動いてしまいそうになり、自分を嗤いたくなるのをこらえながら娘を見つめた。
「やるって言ったろ?」
 だからそれは盗みではないと声が伝える。
「…………」
 それでも迷いを見せながら押し黙っている娘を見つめて。
「それじゃ、こうしねえ?」
 いいことを思いついたとでも言わんばかりに、男の声が喜色を帯びた。
「お前がオレに悪いと思うんなら、もしその金があまった時にはさ―――」
 相手に視線を向けた速見が、楽しそうにくすりと笑いながら口を開く。
「綺麗な服でも買って、着て見せてくれよ。ニーナ」
 そう言って娘を見つめた。
「…………な、に考えてるの?」
 一瞬にして罪の意識も迷いもどこかへ吹っ飛んてしまったらしい娘の唇から、唖然としたような声がもれる。
「何って。いま言っただろ。オレは綺麗な格好してるニーナを見たいだけだけど」
 まるで奇妙な動物を見るような目つきを向けられて、速見は指先でこめかみをポリとかいた。
「信じられない男ね。泥棒が盗みを働いた場所に戻るわけないでしょ!?」
「そういうピッチリした格好も、なかなか色っぽくて好きなんだけどよ―――」
 相手の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ごく真剣な顔でウーンと男が考えこむ。
「そうだな。お前には明るい色の……たっぷりした布のスカートなんか似合うと思うぜ?」
 こう、ふわふわってよ。
 速見がそう言って、嬉しそうに両手を広げた。
「勝手に話を進めないで!」
 イライラとした口調でニーナが叫ぶ。
「つれねえなあニーナ。オレたち、ゆうべ愛を交わした恋人同士だろ?」
 穏やかに受け流しながらそう言って男が笑う。
「恋人なんかじゃないよ。泥棒だって分かってるでしょ。あたしはこれが欲しくて近づいただけ」
 ニーナが手にした財布を指先でつまんで振った。
「…………」
 速見が無言のうちに肩をすくめる。
「それに……これ」
 ニーナが男の目に見えるように、財布を開いてぐいと突きつけた。
「慰めてくれる人がいないなんて言ってあたしを騙したね。ハヤミって恋人いるんじゃない!」
 何で他の女と寝るの!?
 娘が怒りに満ちた声を放つ。
「あたしを共犯にしないで」
 ニーナが許せないと言った目つきで男を睨んだ。
 長い時間そこに挟まれていたのだろう表面の荒れた写真には1人の女の姿が映っていた。

 まっすぐな黒髪に縁取られた白い顔。
 透き通るようなアイスブルーの瞳。
 いささか冷たく目に映るものの、凛然とした美しい横顔。

 それまでずっと笑みを浮かべていた男の視線が、その女の姿を前にしてかすかに揺らぐ。
「……そいつは、もう……」
 ごく低い声で囁くように呟いた。


 そしてわずかの間が空いたあと。


「―――――もう、死んだ」

 いないんだよ。

 写真を見つめながらはっきりとそう言って、男が娘に向けた顔はとても穏やかで。
 とても静かで。

「…………!!」
 絶句したニーナが大きく目を見開く。
「ごめ…ん…なさ……」
 男が写真の女を心から愛していたことはその表情と声ではっきり知れて、その他に言うべき言葉を見つけられずに、ニーナが細かく唇を震わせる。
「だからゆうべのことは浮気じゃねえだろ?」
 な?
 そう言って娘に片目をつぶってみせた男は、気にするなと茶目っけのある笑みを口元に浮かべた。
「どこまでもふざけた男―――」
 その笑みに救われたことを知られたくなくて、ニーナが唇から小さな毒を吐く。
「お前の躰……さ。あたたかかったよ」
 ありがとな。
 愛おしむような声で、速見が礼の言葉を口にした。
「それなのに金なんか渡したら、ニーナに失礼だってのは分かってるんだけどな」
 申し訳なさそうな視線を相手に向ける。
「でもオレ、他に何も持ってねえんだ」
 詫びるように言葉を続けた。

 何も。
 今の自分は本当に何ひとつ手にしていなくて。
 胸を張れるようなものではないとしても、人に渡せるようなものはそれしかなくて。
 だから―――。

「いるなら持ってけよ。気にしなくていい」
 そう言って、速見はもう一度口元に笑みを浮かべた。 
「……じゃ、じゃあ、これはありがたくもらって行くからね」
 ようやく心を決めたらしいニーナは口ごもりながらそう言って、財布から抜き取った札をバサリと振った。
「もう二度と姿は見せないから安心していいよ」
 男へ叩きつけるように言って、きびすを返す。
「ん、あばよ」
 聞こえた声音に、ニーナがふと足を止めて振り返った。
 自分に優しい視線を投げている男の顔をじっと見つめる。
「―――ね、答えてハヤミ。この島に来たの……いつ?」
 どうか違っていて。どうか合っていて。
 あの日の晩のあれは―――自分ではないと。自分だと。
 お願い、どうか。
 どちらであって欲しいのか自分でも分からぬまま、ニーナがすがるような思いを胸にしながら男を見つめる。
「……たぶん……二ヶ月は経ってねえだろうな」
 なぜだか必死の視線を自分に向けている娘の顔を見返しながら、速見は心もとない口調で答えた。
「たぶん?自分のことだよ?」
 ごまかされたのだと思ってニーナが怒ったような顔をする。
「そう睨むなよ。可愛い顔が台なしだぜ。でもまあ、怒った顔も毛を逆立てた山猫みたいで可愛いけどよ」
 そう言いながら、速見が楽しそうな色を目線に浮かべた。
「ふざけないで!」
 どんなに怒っても逆効果でしかないように思える男に、ニーナが強い口調を叩きつける。
「実はオレさ……その頃のことはよく覚えてねえんだ」
 ちょっと壊れてたみてーでな。
 そう言って男が少しだけ笑った。
「壊れ……て?」
 その言い方がおかしくて、怒っていたはずの娘の口元もわずかにほころぶ。
 しかしそれであれば時期的には合っている。
―――じゃあ、もしかしたらあの晩の……あの人は。

「…………」

 速見を見つめるニーナの唇が、何かを言いたげに小さく震えた。
 夜目の利くこの男にどこか感じる野生の獣のような匂い。
 ごくわずかに右肩の上がる歩き方。それに―――。
 ゆうべ自分を抱きしめていたのは逞しく力強い腕だった。
 おそらくは強靭なバネを秘めているに違いない男の躰。
 けれど。
「……覚えて……ない……」
 ニーナは口の中でちいさく呟いた。
 Gracias. ―――助けてくれてありがとう、と。
 そう伝えることができずに唇をきゅっと噛みしめる。
「ハヤミ」
 うつむいていた娘が上目づかいに視線を上げた。
「うん?」
「まだ……ここに泊まってるの?」
 そう言いながら、ニーナの顔に歳相応のあどけない表情がチラリとのぞく。
「ああ、まだしばらくはいるだろうな」
 娘の複雑な胸中を知らぬ男がのんきな声で返した。
「そ、う」
 考え込むような娘の声に速見が、お、と顔を輝かせる。
「スカート姿、見せてくれるのか?」
 にやにやと笑いながらそう言った。
「このバカっ!!」
 その顔を目にした娘が、とっさに湧きあがった怒りのままに男をののしる。
「え」
 いきなり怒鳴られた速見が唖然としたように口を開けた。
「あんたみたいな奴の所なんか、もう絶対に来ないわよ!!」
「うわひど……」
「絶対よ!―――絶対だからねっ!!」
 目を丸くしている男に向かって最後にそう叫んで大きく舌を出した娘は、するりと身を翻して外に駆けだして行く。
 ぱたぱたという軽い足音がコテージから遠ざかっていった。


「…………あんたみたいなヤツ……絶対、ね」
 その場にひとり残された男が小さく肩をすくめる。



「―――――残念」
 くすりと笑う声が床に落ちた。