短くなってきた煙草を大事に吸いながら、ベッドに身を倒してあお向けになる。
 開け放っている窓の外に真っ青な空が見えた。
 気づけば、朝の眩しい陽光が燦々と幾重もの光条となって部屋の中に降り注いでいる。
 あたたかい光が躰の上を撫でていくのが心地よい。
 陽の匂いがやわらかく躰を押し包む。
 その優しい感触に、ゆうべの娘の肌を思い出していた。

「ホントに……あったかかったぜ?」

 とうの昔に姿を消してしまった娘に向かって囁きかける。
 柔らかな娘の躰は、自分が長いこと忘れていたぬくもりを思い出させてくれた。
 娘を抱きながら、こみあげる愛おしさが躰の中いっぱいに満ちあふれていた。

「―――眩しいな」
 天から降り注ぐ陽光を見上げながら速見が目を細くする。
「…………空ってあんなに青かったっけ」
 惑うような声をもらしながらなおも見つめた。


「青かったんだ……な」
 そう呟いた唇にやわらかな笑みが浮かんでいく。


 そんなことすら自分はずっと忘れていた。
 青いということは知っていた。
 女の躰があたたかいということも。
 だがその実感を、長い間つかむことができなかったのだ。
 目にしているものの、その意味を。
 腕にしたものの、そのぬくもりを。

 いま自分は生きていて、見上げる空が青いと感じている。
 腕に抱く女の躰をあたたかいと感じることができる。

 それは幸せなのだということを。


「オレだけ幸せ感じてて……悪ぃな、月子」
 速見は久しく口にしていなかった女の名を呼んだ。
「けどよ、お前の分まで生きてやるなんてこた……」
 オレにはまだ言えねえ。
「器が狭いもんでな……すまねえが、いまは自分の分だけで手一杯だ」
 その代わり。
「オレの人生、めいっぱい楽しんで生きてやるよ」
 だからお前は。
 自分から途中下車したお前は―――。
「せいぜいそこで悔しがってろ」
 それが自業自得ってもんだろ。
 なぁ?
 女の面影を愛おしく思い出しながら空を見上げた。

 真っ青な大空。
 輝くようなスカイブルー。
 1羽のウミネコが、のんびりと青空を滑空しているのが眼に映った。

「オレ達、夜ばっかり走っててよ」
 白い翼の軌跡を目で追いながら、この世から飛び立ってしまった相手へと向かって語りかけるように口を開く。
「お前とは、ちゃんと昼間の空を見たこともなかったんじゃねえか。明るい所で抱きしめたこともさ………ごめんな」
 小さな声で速見が謝った。
 強い輝きを放っていたあの魂を愛したことを、いつか痛みなく思い出せる日が来るのだろうか。
 来て欲しくはないと、そう思ってしまう自分はまだあまりにも弱すぎるけれど。
 全身のあちこちで開いたままの傷口からは、まだじくじくと赤い血が流れ続けているけれど。
 捨てようと思うものを、思うだけで捨て切れるはずがないことも知っている。
 このままで済むはずがないことも、たぶん。
 けれどいつかはきっと。
 
 強くなって。
 
 この世にお前がいなくても。
 
 いつでも笑っていられるように―――――強くなっ……て。



「…………強く、なりてえよな…………」
 速見の唇がかすかに震えた。



 そのうちきっと、すべてが優しい記憶となるのだろう。
 いつかはきっと穏やかな記憶となるのだろう。

 ふたりで駆けた夜の。
 色鮮やかな思い出とともに。


「……月子」


 忘れ得ぬ、夜毎の日々――――。





「そういや、飛び出してきちまってからもう長いこと走ってねえよなあ。ま、当たり前だけどよ」
 ふと思い出したような顔で速見が独り言を呟いた。
「けど乗ってたクルマは潰しちまったし……どうするかな。ああ、解体屋のオヤジがまだ乗れるから持ってもいいぞって言ってたっけか、あの青いマシンで―――」
 また山でも走ってみるか。

 この青く済んだ空のような、インディゴブルーの機体で。

 夜を。

 ひとりで―――。

「それも……悪かぁねえよな」
 男の唇がちいさく笑んだ。


「帰ったら……あいつらに怒られるんだろうなあ」
 吠えつくようにして食ってかかるのだろう青年と、呆れたような表情を見せるのだろう大柄な男の姿を思い浮かべながら速見が苦笑する。
「何にも言わねえで飛び出してきちまったもんな」
 すべてを置き去りにして、すべてから逃げ出して。
 それでもようやく、故郷が懐かしいと思えるようになった。
「しょうがねえ、おとなしく怒られてやるか。……あちッ」
 フィルター近くまで燃えつきた煙草に唇を焦がされて、思わず顔をしかめた。
 灰が落ちぬよう指でそっと挟み取り、缶の縁で押し潰す。
「煙草も切れたんじゃ起きるしかねえな。さて、と。じゃあ町に朝メシでも食いに行くか」
 朝寝をあきらめてようやく身を起こし、速見はうーんと伸びをした。






「ブエノス・ディアス、マリア。煙草くれるかな、1箱」
「あらハヤミ、Buenos dias. ―――はい、これね」
「そうだ。オレが預けてる金、あとどのぐらい残ってる?」
 ここで世話になると決まった時、宿泊費としてある程度の金額を女主人に渡してあった。
「ちょっと待って」
 宿の帳簿を引っぱり出してきたマリアが老眼鏡を鼻にかけて、黄ばんだノートの頁をパラパラとめくっていく。
「―――これだわね」
 ある頁で手を止めると、指先でトンと金額の上を叩いた。
「やべえ。思ってたよりも全然少ねえな」
 速見は目にした数字をじっと見つめる。

 それだけここに長居をしていたということだった。
 それだけの時間、自分は逃げ続けていたということなのだった。

「どうしたの?」
「いや、こっちの話」
 女主人の声にも上の空で返事をして、しばらくの間考え込んでいた速見だったが、やがてゆっくりと顔をあげた。
「マリア、移動の手配を頼めるか?金が尽きるんでここを引き払う。今日付けで精算してくれ。―――――明日発つ」
「……急な話ね。少しの間なら目をつぶってあげてもいいわよ?」
 老眼鏡の奥からのぞいている黒くあたたかな女の瞳は、まだここにいたいのなら泊まっていけと引き止めていた。
「グラシャス。けどオレもう女の世話になるのはやめたんだ」
 片目をつぶってウィンクを投げながら、速見がふざけた口調で女からの申し出をていねいに辞退する。
「ナマ言ってるんじゃないわよ、ヒヨっこが」
 マリアが優しい目つきで男をにらんだ。
「……って言ってもな。あんたから見れば、男なんて全部ヒヨっこだろ、マリーア?」
 肩をすくめながら親しみをこめて言った速見が笑う。
 この島の空のように海のように。
 それは明るく澄んだ、曇りのない笑顔だった。
「何があったのかは知らないけれど。……よかった、元気になったのね」
 カウンター越しに伸びてきた女の太い腕に顔を引き寄せられて、厚みのある唇でそっと頬に口づけられた。
「また来るよ、いつかね」
 速見は囁いて、女の頬にキスを返した。
「待ってるわよ。でも来るのはいいけど、ああいう目をして来られちゃ困るわ、ボーイ。暗い顔して居座られると客足に響くのよ。―――うちは客商売なの」
 女主人は太った躰をゆすって笑いながら、バチンと音のしそうなウィンクを投げて寄越した。
「で。次はどこへ行くつもり?」
 港に着く船から入手するリストで宿泊客の船歴を知っているマリアが、陽気な声で尋ねる。
 目の前の男はいくつかの国と海を渡ってやって来た。今度はどこへ流れていくのだろうと答えを待ち受ける。だが。
「―――ハポンに」
 唇に静かな笑みを浮かべながらそう言った速見の視線は、真っ直ぐに前だけを見つめる男のものだった。
「……Japon……。ハヤミ……」
 マリアが、オゥと丸い形に開けた口元に手を当てた。
 やがてその黒い瞳にうっすらと涙がにじんでいく。
「……国元に帰るのね」
 そっと目元を拭った彼女は優しい眼差しで男を見つめた。
「ああ」
 うなずきながら速見が少しだけ照れくさそうな顔をする。
「そう……よかった」
「だからこの金で手配して欲しいのはエアチケットと」
「でもそれだけでギリギリよ?」
 頭の中で算盤を弾いたマリアが心配そうな顔をする。
「ああ。だから後は、本島までタダで乗せてくれる船」
 かな?
 首を傾げながら言って速見がひょいと肩をすくめる。
「働くからよ。って言って気のいいキャプテンを探してくれねえ?」
 そう言いながら困ったような顔で笑った。

 
 故郷を飛び出したあと、どこへ行く当てもないままに飛行機を乗り継いで、そのうち辺鄙な地域にたどりついてからは船旅をくりかえした。
 空っぽな躰を抱えたままいくつもの港をさまよい歩いて。
 やがて目的地も知らずに乗り込んだ船の中で客と諍いを起こしたあげく、縛りあげられて船倉に放り込まれた。
 そして食事もろくに与えられぬまま真っ暗な船底で何日もを過ごしたあと、放り出された先がこの島だったのだ
 この頃から記憶が定かではない。
 朦朧としたまま森へ入ったような覚えがある。
 そして獣のように獲物を狩って飢えをしのいでいたが、そのうち獲物にありつけない日が続き、ふらりと近くの町にさまよい出た晩のその翌朝に力尽きて意識を失ったように思う。
 そして気づいた時には、質素だが清潔なリネンのシーツを敷いたホテルのベッドに寝かされていたのだった。
 女主人であるマリアが温かな食事を運んでくれて、ろくに口も利けない状態の自分を風呂に入れ躰を洗ってくれて。
 しまいには、自分の経営するコテージの宿泊者としてという形ではあったが住む場所まで世話してくれた。
 この島では、他にも多くの人間の世話になった。
 自分が騒ぎをおこすたびに後始末をしてくれて、店でいつも旨い酒を飲ませてくれた陽気なバーテンのビセンテ。
 会うたびに案じるような眼をしながら無愛想な声で、元気かとたずねてきた舟守の少年、ホセ。その他にも―――。

 何の縁もなくたどりついた島で出会った優しい人々。
 今の自分はまだ受け取るしかできないけれど。
 彼らから受け取った優しさを―――。
 返し尽くせないほどに限りない優しさを、返せる分だけ。


―――いつか誰かに返したい。


「おいハヤミ。ぼけっとしてねぇでジャガイモを剥きな」
 次第に小さくなっていく島影を眺めながら珍しく物思いにふけっていると、厳しい男の声が甲板の上を走った。
「―――アイ・サー、キャプテン」
 速見がそれに対して従順な態度で応える。
「タダで乗せてやってるんだからしっかり働くんだぞ」
 旧知の友であるマリアからの口利きだとはいえ、このオンボロ船の船長は、無賃乗船者である男にタダ飯を食わせておく気はないようだった。どうやら本島に着くまでの間、下働きとしてこき使う腹づもりであるらしい。
「分かってるって。……剥きゃあいいんだろ、剥けば」
 船べりから離れた速見は、顔中を白い髭に覆われた船長から指差された、麻袋と木箱が待っている場所へと向かう。
「それが終わったら次はキャベツを刻みな。ああその前に鍋の火も起こしておけよ」
 追い打ちをかけるようにして矢継ぎ早の指示が飛ぶ。
「…………アイアイサ」
「聞こえねぇな。声が小せぇぞ」
「―――アイアイッ!!」
 速見がヤケクソ気味に声を張り上げた。
 ようやく満足したのか船長の姿が遠ざかったのを確認してふぅとため息をつく。
「マリア、オレは気のいいキャップを頼むと―――」
 言わなかったか、と愚痴を垂れかけて苦笑した。
「働かざるもの食うべからずってな。まあ……たまにはキンロウするのも悪くはねえか」
 世の中の大半の人間から撲殺されそうな台詞を吐いた速見は木箱の上にどっかりと腰を据えると、麻袋に手を突っ込んでは取り出したジャガイモの皮をするすると剥き始めた。
「任せろよ、ナイフの扱いならお手のモンだっての」
 人間の薄皮一枚を切り裂くのもジャガイモ皮を剥くのもすべて一緒くたにした危険思想の持ち主が、のんきな口調で言いながら剥き終えた塊を次々にボウルの中へと放り込んでいく。
「こういうのも昔取ったキネヅカって言うのかね」
 ちょっと違うような気もするけどな。
「まあどっちでも構わねえか」
 曲線を描きながら長く垂れ下がるジャガイモの皮が、見る見るうちに甲板の上へ積み上がっていくのを眺めながら、速見がふと気づいたように手を止めた。
「にしても、これ…………いつ終わるんだよ?」
 麻袋からあふれて転がり出している大量のジャガイモに目をやりながら、はぁと深くため息をつく。
「……ああ。空がきれいだねえ」
 気も遠く見上げた青空に、フワリとひるがえるスカートの裳裾が映った。

「―――ニーナ」

 大空に映る娘はその身に白いワンピースをまとっていた。
 真っ白な布地いっぱいに散っている黄色のサンフラワー。
 鮮やかに咲き乱れる大輪のカナリアイエロー。
 あふれこぼれるような笑みを浮かべた娘の笑顔。
 幻聴のように、明るい笑い声すら耳に聞こえる。
 その光景の中で、娘は全身に陽の光を浴びて美しく輝いていた。

「見たかったよな……」
 ジャガイモとナイフを手にしたまま、ぼうっとしながら速見が青空を見上げる。
 柔らかでたっぷりとした布地を身にまとった娘はきっと、眩しいぐらいに綺麗だったことだろう。
「もったいないことしちまったかね。ヨメに欲しかったぞ、と」
 ジャガイモを剥く作業に戻りながら未練がましく呟いた。
 娘が取り仕切る家の中はきっと、いつも明るい光が満ちていて。
 みずみずしい空気の匂い、あたたかに降り注ぐ陽の光。
 庭先では青空をバックに、白い洗濯物がはためいていて。
 食事時には湯気の立つあたたかな手料理が食卓に並び。
 いつも優しい空気に包まれた家。
「ああいうコをヨメにもらったらすげえ幸せに―――」
 なれそうな気がする、と言いかけて。

『あんたみたいな奴の所なんか、もう絶対に来ないわよ!!』

 娘の最後のセリフが耳に甦り、ジャガイモを剥く手が止まった。
「ああ……そうか……」
 フラれたんだっけな、オレ。
 思い出したように速見がぽつりと呟いた。

『絶対よ!―――絶対だからねっ!!』

 娘の怒ったような口調を思い出して、ごくゆるやかな笑みを唇の上に浮かべる。
「絶対絶対って、何もそんなに連呼しなくたっていいじゃねえかよ」
 なあ?
 そう言って、誰に向かってか同意を求める。
 昨日の朝のことなのに、すべてがやけに懐かしく感じられた。
「どっちにしろあのコには……オレなんかじゃあ釣り合わねえもんな」
 仕方ねえかと落ち込んだように口の中でぼそぼそ呟く。
「オレのことなんか、きっとすぐに忘れちまうんだろうな」
 あきらめたような声で言いながら、ふぅと長く息を吐いた。

 けれど―――きっとそれでいいのだろう。
 彼女のような娘はそうあってしかるべきなのだから。

「いい男を見つけるんだぜ?じゃなきゃ許さねえぞ」
 とがめるような口調で案じるような声で、速見がここにいない娘へと向かって語りかける。
 お前のことを、太陽の下で抱きしめてやれるような男を。
 優しい笑顔の娘には健康的な男がよく似合う。
「けど、ほんとはオレが……」

 夜にではなくて、昼間の明るい陽射しの中で。

「……抱きしめてやりたかったんだけどな」
 ごく低い声でもらされた呟きを、海渡る風だけが聞いた。


「―――ニーナ……」


 月の綺麗な晩に出逢った可愛い娘。
 真っ白なサンパギータの花のような。
 南の島のファム・ファタル。

 この島で、最初で最後の―――――オレの恋人。


 たった一晩の恋だったけれど、愛してた。



「アディオス。…………幸せにな」
 娘への想いを唇に、そして風に乗せながら青空を振り仰ぐ。
 視界いっぱいに広がる蒼天。



 見上げる空はどこまでも高く、青く澄んでいた。